ザ・プリズナー・オブ・アスラパズ
急峻な山崖を滑落するように走り降りるヤギの群れ。それを追う痩せ細ったクーガーは、巧みな誘導で少しずつ距離を詰めているようだった。遅れつつある一匹の末路をラマの背から遠目に想う。
カッパドキアめいた厳格な自然にも生き物が棲み過酷な生存競争を繰り広げている。ここは標高2000メートル超、岡山県の山脈地帯である。「甲殻を持たない生物のアワレなこと。」彼女の声色に含まれるのは憐憫か、あるいは優越か。
ラマに腰掛け断崖の山道を行く彼女の服装は大自然に似つかわしくない白衣。右手には包帯が巻かれている。湯治客だろうか?だがここは下界のオンセンやマサシ縁の地から、遠く離れ過ぎている。彼女が目指すのは……ヨロシサン高地秘密ラボである。
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カコーン……。文明都市から遠く離れたこの地、ミヤモトマサシの湯治場にはテックの光も届かぬ。中天に一つ輝く月の下で彼女は強張った白い肢体を無理矢理伸ばした。オンセンは本来リラックスを促すものだが、熱湯は苦手なのだ……本能的に。
そもそも彼女、イセ・ブルーオーシャンがここに来たのは休養のためではない。重要な情報を非ネットワーク経由で入手するためだ。午後6時43分。カラリと脱衣所の戸が引かれ、ヒノキ板を渡ってくる女性あり。そのまま流れるように湯に浸かる。
「明日も」イセはぽつりと言葉をこぼす。「ヨロシサン」即座に符丁を返す情報屋に、イセは胸の谷間に挟んでおいたマネー素子を渡す。その胸は豊満だった。替わりに受け取った情報素子をしまうとイセは立ち上がった。
「ラマは宿の表に繋いである。護衛が必要ならオプションだ。言っておくがクーガーは話の分からない奴らばかりだぞ」情報屋の警告を無視しイセは湯から出、脱衣所に向かう。包帯の下の紅く火照った右手をさすりながら。
◆◆◆
月崩壊後の激変の中、各地のヨロシラボに閉鎖の嵐が吹き荒れた。シャナイ級機密研究を扱っていた岡山ラボも同様だった。ラボ所在地も、岡山山脈で稀に出土する古代化石の研究成果も、「閉鎖な」の緑の三文字に集約され、終息した。
進化の極地、甲殻類の頂点に至るための鍵。探求の中、甲殻類の奇跡によりロブスターの意志を継ぎニンジャとなったイセは、更なる古代DNAを求め粘り強く調査を続け…遂に岡山での不審な施設の目撃情報に至った。ラボはマサシの湯から遥か30km、アバンドン峡谷にあるという。
◆◆◆
クーガーや山賊を打ち殺し、峡谷の入り口に立ったのは太陽が地平線の彼方に沈むころだった。両崖の高さは500メートルほどか。イセは夕日に照らされた東側の崖を見上げ…おお、見よ!燃えるように赤い断崖に、巨大な老人の顔が彫られている!まさか!
巨顔の下には迷彩が施されたドア。これこそ巧妙に隠されたヨロシサン秘密ラボに違いあるまい。ドアの分厚い土埃を払い現れたテンキーに、イセはパスコードを入力する。「4,6,4,3…」「ビーーーーップ!」開錠失敗!
「パスコードは8桁ドスエ」電子音が無情に告げる!通常4桁のパスコードが8桁となれば、その複雑性は…少なくとも2ばいいじょうになるであろう!ああ、イセの探究の道はここで閉ざされてしまうのか!?いや待て!…再度テンキーに伸びる指!
「ガゴン、プシュー」ヨロシ最高機密にあたるため、ここで入力されたパスコードは伏せるが、恐るべきはそれを推測したイセ・ブルーオーシャン研究員の知性だと言っておこう!ともあれ真理への扉は開かれた。奥にあるエレベーターに無言でイセは乗り込む。
「望むものが残っていればいいが…」長い、長いエレベーターの上昇の中、ついネガティブなことを考えてしまう。(((ダイジョブ!)))(((ガンバッテー!)))足元で虹色のハサミを振り、声援を送るバイオザリガニたちの健気さに思わず頬が緩む。「到着ドスエ」
エレベーターを降りた先にはまたもパスコード付きのドア。「ガゴガゴン、プシュー」先ほどにもまして重苦しく開かれたドアからあふれ出す、熱気と湿気!肌がちりつくほどの光!視界を覆う一面の緑!ついにイセはラボの核心部に至ったのであった。
断崖をくり抜き建てられた巨大廃テンプルを打ち壊し、化石を採掘するとともに拡張し、この古生代シミュレートラボは建設された。シダ植物のジャングルと数十メートル上空に浮かぶ人口光源。対照的に右手側、断崖に面する採光用硬質ガラスの外には暗黒の夜空が広がっていた。
入口近くの巨大バイオソテツの葉の陰に、イセは明らかな人工物を認める。コンソール、大型UNIX、キャビネット、巨大反応槽。放置されたジャングルに吞まれつつあるが、ここが研究スペースだったのだろう。求める情報まで後数センチ。コンソールの起動スイッチを押し…「ピボッ!」
「琥珀DNA」「大きいので強い」「空の王者」「バイオ」黒いコンソール画面に次々と映し出される邪悪な文言と写真!「なんだこれは…貴重な古代資源をまさか」怒りに震えるイセ!そのとき、ジャングルから巨大な影が!「イヤーーーッ!」
「ンアーッ!」猛チャージに吹き飛ぶイセ!タタミ10枚分を転がり、体勢を立て直し顔をあげた先には!「ドーモ、メガネウラです」ナムサン!ぎらつく複眼、透明な翅、胸の前で合わされる4本の腕…巨大なトンボがそこにはいた!トンボの…ニンジャ!
「ドーモ。スプレマシーです」右手の包帯を解き、アイサツを返す。アイサツは大事だ。古生代からそう言われている。「キュロロロ。ニンゲンを見るのは久々だな」「下賤なバイオ生物め。私の琥珀DNAはどこだ」「知らんな。食えるものは食った」「貴様…!」
「イヤーッ!」大きく踏み込み巨大なハサミを突き出すスプレマシー!だが!「イヤーーーッ!」「ンアーーッ!」メガネウラのサマーソルトキックが撃墜!重力に縛られない飛空ニンジャが使うとその威力は3倍にもなる!またしても吹き飛ぶスプレマシー!
「ふむ。貴様は脆弱なニンゲンではないようだが…所詮はエビ。節足動物<<アスラパズ>>の王たる昆虫、その頂点である俺にはかなうまい。」なんたる傲慢!甲殻類を差し置いて王を僭称するとは!「虫けらに、大海の広さを教えてやろう」ハサミを固く締めるスプレマシー。だがその足はダメージに震えている!
「ちょうどここにも飽きてきたところだ。貴様を殺した後、外界に版図を広げることとしよう」複眼が一瞬スプレマシーの背後の夜空に向き…再びその全てがスプレマシーを捉えた。ヨロシサンの狂気が生んだバイオニンジャ。だがそのニンジャ複眼動体視力と無重力カラテはただの妄想ではない!
「イヤーーッ!」メガネウラの無重力飛空タックルがスプレマシーに迫る!ああ、スプレマシー!甲殻類の覇者、至高のヒーローよ!ここでその英雄譚は終わってしまうのか!?そのとき!「イヤーーーッ」「グワーーーーッ!!」巨大衝突音!
メガネウラの無重力タックルに対しスプレマシーが繰り出したのは…エビゾリ・ブリッジ!このカラテムーブは、その有用性ゆえにカラテのみならずカブキでも使われているのは読者諸君もご存じのことだろう。寸前で避けられたメガネウラの眼前には採光用硬質ガラス!回避不可激突!
「猪突猛進な貴様とは違い、エビは…後ろにも進むことが出来る!昆虫と甲殻類、どちらが上か理解したか?これでQEDだ!」硬質ガラスを突き破り、虫の息のメガネウラにスプレマシーが歩み寄る。(((トドメオサセー!)))バイオソテツの陰から声援!だが!
「イヤーッ!」割れた硬質ガラスから飛び起き、向き直るメガネウラ。まさか、あの無重力タックルを急制動し衝突ダメージを半減させていたというのか?なんたるトンボ的無重力カラテの高精度制御か!「タネが割れてしまえば、この複眼と翅がある限り…俺は負けん」
サマーソルトキックの被弾後、大技エビゾリ・ブリッジまで繰り出したスプレマシーに余力無し!ああ、今度こそ負けてしまうのか?全生物の夢はここで断たれてしまうのか?割れた硬質ガラスから流れ込む夜の高地の冷気が死神の手めいてスプレマシーの頬を撫でる。「グワーッ!」
「グワー酸欠!」突然苦しみその場にしゃがみ込むメガネウラ!「古生代の高濃度酸素に慣れ切った昆虫の貴様が、岡山高地の空気に耐えられるはずもないだろう」ナムサン!気門の呼吸効率を計算にいれたフーリンカザンだ!スプレマシーの青いセルフレームメガネが知性の光に輝く!
「外界の風にも耐えられない貴様が節足動物の王だと?笑わせるな。貴様は狂気の牢獄で飼われる囚人だ!大海にも辿り着かず、ここでそのまま死ね!」(((トドメオサセーーー!)))再び現れるバイオザリガニたち!「イヤーーーーッ!」正義の青き鉄槌が振り下ろされる!「サヨナラ!」
◆◆◆
(((君はよくやった。少なくとも一つの邪悪な妄執が抹消され、生命倫理が守られたのだ)))メガネウラの誅殺後、研究スペースを隈なく探したものの琥珀DNAは見つからなかった。肩を落とすイセをロブスターの幻聴が優しく慰める。
(((誰も君の活躍を見ていなくとも、私は見ている。固く鋭い君の意思がいずれヨロシサンCEOの座に届き、世界を救うことを信じているよ)))イセは白衣の埃を払い、夜空を見上げた。月に浮かぶハサミの影が、こちらに向かって振られたように見えた。
【イセ・ブルーオーシャンとアスラパズの囚人】
完
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