コミュニティ論(2016年6月7日)

コミュニティには寿命がある。
正確に言うと、名前を持ったコミュニティの、「名前」には寿命がある。
ワイワイやって、仲間を増やして、楽しくなって、これが永遠に続けばいいなあ、と思った頃、大概はめんどくさいやつとかつまらないやつが入ってきて、唐突に終わる。

めんどくさいやつ、つまらないやつを排しても変わらない。場合によっては排するその行為自体が同じ結果を生む。
多くの場合、コミュニティは、名前が存続すること自体を目的にとっていない。名前を保持することに求心力は働かない。

多くの場合、コミュニティが死のうとしているとき、面白かった人々は別のコミュニティに移住し、また別の場所で新しい名前のコミュニティが産まれる。
古い巣は、枯れ木が朽ちるように過疎化が進み、いつのまにか消滅する。

これは通常のサイクルであり、無理に逆らってもいいことはない。門戸の開かれたコミュニティはいずれ必ず、この類の死を迎えるのだ。

問題は、ポータルやオフィシャル、ロビーのような性格を持つコミュニティだ。そういったコミュニティはシンボルであるだけならいいが、人が集った結果、居心地のいい空間を形成していた場合、名前が死ぬと概念本体までもが死ぬ。
回避するには、コミュニティの中心を名前ではなく「個人」に据えること、明確に「存続すること」に据えることくらいしか思いつかない。

前者は、はっきりとした管理人を据え、kickやbanの権利を持って統治すること。後者は、様々なサブコミュニティへのロビーであることに徹し、ロビーではお喋りしないことを徹底すること。
緩やかに死んでゆくコミュニティを存続させるために、コミュニティ内のメンバーの奮起を期待するのは奇跡を期待することに近いし、それを戦略に据えるのは間違っている。つまんねえやつを叩き出すのも、それほど賢いとは言えない。そういう連中は昔から一定数居て、これからも一定数必ず出てくる。いくら掃除を丁寧にしていても建物は痛む。

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