『カバリとジャンには、夜がお似合い』

 彼の敵前逃亡は、小隊の運命には何の影響も与えなかった。路地の奥で殺された人数が、ただ七から六に減っただけだ。だがその夜は彼を、永遠に変えてしまった。

 路地を、まるで連なる川獺のように小隊は進んだ。最後尾の彼だけが、分かれ道の手前で立ち止まった。兵士たちは低い姿勢のまま暗がりへ消えてゆく。おれは捨石の、囮役を引き受けたのだという言い訳を彼は考えた。自分一人だけなら逃げられる可能性がある。彼にはそれが理解った。そういう能力だった。

 だからこそ、まるで影から生まれたような女を見た瞬間に心が折れた。女の形をした、逃れられない死がそこにあった。
 「一人離脱」と状況を呟く声。ジガ通信だ。一度瞬きをすると女はもう彼の隣にいた。「まかせる。時間が惜しい」。舌打ちのような声が、小隊の進んだ方へ遠ざかってゆく。しんとした路地に、死の声は引っ掻き傷のように残った。
 彼は、全力で逃げることにした。

 三年後。
 国境沿いの、麻薬栽培くらいしか仕事のない終わりの村だ。
『カバリ』
 手紙の宛名は捨てた筈の名前だった。今すぐ全てを放り出して逃げなければ、と彼の理性は強く警告したが、目が続きを追う。短文。ハーグルームの監獄半島までの道中、とある子供の護衛のために、彼の能力が必要だという。

「あの晩、手を動かす十秒を惜しんだせいで三年かかった」

 遅かった。背後から聞こえたのは、まさしく死の女の声だった。

「ムエルタの路地で私が殺したお前の小隊は、自分たちはお前を逃がす囮だと笑って死んだ。死兵の強がりと笑ったが、実際お前は私の手から逃げ延びた。今日もそうだ。殺すつもりがなくなって、ようやく、お前を捉えられた」

 彼の能力はそれを肯定している。運命はまだ彼に選択肢を残している。

「仲間を棄てるような負け犬に戦士の仕事は求めない。ただ、その力だけは…必要だ」

 彼が裏切った仲間達の、形見。空色の欠けたインガオリが女の手に光る。

【続く】

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