エヴァ完結したのを観て(ゴリゴリネタバレ)
ネタバレ嫌いな人はさっさと回れ右すべきである。
前置きが長いので、それなりに回避の余裕はあるはずだが、急にぶっ放すのはわたしの癖だ。ここはわたしの庭なので、申し訳ないが好き勝手にさせてもらう。
今回は、登場人物に至るまで殆ど敬称抜きだ。
とりあえずネタバレ回避のために課金ラインを設けてアレするが、返金OKなのでべつにガンガン返金要求してくれて構わない。その辺は好きにしてほしい。たくさん読まれて、ある程度溜まったらグッズとか買ってエヴァを作った人々に還元する予定。
(3/16追記 もうそろそろ公式から田植えバレもされたことだし、課金せずとも最後まで全部読めるようにしました)
わたしは現在、二児の親である。
子は、二人とも奇特なことにこのわたしに怯えることもなく、それなりに懐いておりおそらくは良好な関係を築いている。
仲違いをしていた実父は一昨年に不意に死んだ。実母とは気が合わないので没交渉である。ただ、いわゆる思春期に粗雑に扱われた記憶もなく、善良な両親だったと思う。学校も出させてもらったし、寝食不自由を感じたことは一度もない。ただ一時期、「わたしがギンギンに悪かった」だけの関係である。
つまり、わたしは機能不全の家庭に生まれてはいないし、そういう環境下でもわたしのような個体は発生するということを最初に主張しておきたい。
わたしはわたしの責任でこうなったし、誰であってもわたしの望まないように歩かせることはできなかった。
わたしのすることに、わたしの両親は関係ないし、わたしの子の為すことにわたしが寄与できることはほんの少し、きっかけを与えることくらいしかできない。
わたしの母は事あるごとに、あなたが人を殺した時はあなたを殺してわたしも死ぬ、というようなことを言い続けた。それで解決する訳ではないけれどもそれがあなたを産んだ責任というものだからだ、と。
わたしはそれに納得しなかったが、まあ、そこまで言うなら殺されてやってもいいかとは思っていた。幸いにして彼女にその機会はまだ訪れていないし、今彼女がそれを実行に移そうとしても難しくなってしまったとは思う。ただ、気概の話ではある。
余談だが、わたしはわたしの子が人を殺した場合、子を殺してわたしも死ぬという選択肢をたぶん取らない。わたしは、子を殺すという選択肢を取るかもしれないし赦すかもしれない。わたしと子は別々の存在で、生まれ落ちた瞬間からずっと、別々の生きものとして生きていくべきだろうとおもうからだ。
わたしたちのできることは少ない。
少ないが重たいことだ。子が、万が一にも「あなたのせいでこうなったのだ」と言うなら、わたしはその時こそ殺してやるのが礼儀というものかもしれないとは思う。ただ、殺せないだろうなとも思う。どれだけ歪でも、子はわたしにないものを持っている。わたしは、それがわたしに似ているからという理由だけで自分の子を殺せない。あるいは、自分に似ていないからという理由だとしても。
ところでこれ諸兄、うっかり読み進めているみたいだけど、ネタバレ嫌な人はさっさと戻った方がいい。
わたしはこれから壮絶にネタバレとかを気にしない書き方で書く。
わたしは、実は先日に放映された劇場版のTV放映を観ていない。劇場では鑑賞したが、割と記憶が古い。ギリギリ、脳の記憶野が生きている頃だったので冒頭の振り返りで大体思い出せた。これは親切設計だと思う。
そうそう、ミサトさん破の時点ですごい叫んでたのになんだよそのグラサンって思ったのをマジマジと思い出した。破を観てこれは金使わなきゃと思って色々買い込んで、期待に膨らませきったQで失禁しかけたのもいい思い出だ。
ともあれ、この映画をわたしはそれなりに評価しているが、素直に観るには歳をとってしまったのかなあとも思った。
一言でいうと、これは「完結させるための映画」だといっていいと思う。完結したのではなく、完結させた。それこそ、ケリをつけた映画。
それも物語というよりは、エヴァンゲリオンという物語を「作る側」としておしまいにすること。そういう意味合いで、作る側の誠意の大放出、わたしに書けるものはここまでですよ、というつくりだったように思えた。
意味深な設定用語のもつ「得体の知れなさ」は全て剥ぎ取られた。人類補完計画というものの発端から内容から目指していたものまで、全部「台詞で」答が描かれた。綾波もアスカも、どういう存在なのかの「説明」が為された。ニア3rdインパクトやらがどういうものなのかも、丁寧に何度も説明されたし、登場人物がこれからすることも全て、何のために、どうして行われるかも予告があった。
これはとても丁寧なことだが、物語としての力を削ぐとも思う。過剰なライティングが画面から闇を奪い、克明に映すことがチープさを生んでしまうように、これは「種明かし」の側面が非常に強い映画だったと感じる。
しかし、それはそのままこの映画が退屈なものだったかというとそれを意味する訳ではない。
冒頭、パリで大暴れのシーンは訳がわからないのにうおおとなったし、人型の機動をしないエヴァがグルングルン回転しながら頑張る戦闘はその操縦感までが伝わるような素晴らしいシーンだった。衝撃波とか平気なんかなとか野暮なことをちょっと思ったりもしたが、すごいいいシーンだったと思う。
かつての学友と再会する展開も、おお、おおおとなったし、訳がわからないまま、黒い綾波が農業チャレンジを続ける一連のシークエンスは、コラ画像が永遠に作り続けられる気もした。
関係ないがあの場合、シンジくんは彼女に「サクナヒメ」って名前をつけるべきだったと思う。
ただ、どんなにグズグズしててもシンジはちゃんと立ち直る。こいつは「やる方のやつ」だ。そういう期待を持って観てしまっていた自分もいた。このままずっと横になって終わり、という映画であるはずがない。さすがに製作委員会もその展開にお金は出さないだろというメタな視点から観てしまうのは、観客である僕の心が汚れてしまったなあという感じもする。
ともあれシンジの、どうして僕に優しくするんだよ!という叫びにはキュンときてしまった。おま、お前、成長したなあ!ってもう目線が保護者である。優しくされていることを自覚できるのは、もう大人なんだ。本当に大人になったんだなあシンジくん、とすごく思った。この台詞だけで、うんお前はもう大丈夫っていう安心感が半端なかったものな。台詞らしい初めての台詞がこれ、というのはすごくいいと思う。良かった。
サクナヒメに「好きだからよ」と言わせるためのただのフリじゃないかとかいう奴は人の心と読解力がないのでもうどっかその辺の隅っこで寝てろ。この後読んでも意味ない。
まあそんなことよりアスカがちゃんと報われていたのは素晴らしい。本当に素晴らしいことだと思う。五億点。これに関してはもうこれを描かれた時点で他のものが全部ダメでも許す。赦してしまう。今回はアスカの映画。アスカ良かったなあ!アスカ!ああ!良かったねえ!!
アスカはツンデレというか、彼女は年相応に子供で、それをそのまま保持しない程度には「大人」になった。
「どうして私があんたを殴りたかったか解る?」という問いを、シンジに直接ぶつけられるのは大人の仕事だ。
子供は、いつまでも待つ。待ってしまう。相手の方が自分よりオトナのはずだ。相手から自発的に伝えに来てくれるはずだ。そうでなければ価値がない。世界がキラキラしない。自分から謝ってきてほしい。あの時のことを。そうすれば元に戻れるのに。そんなことを期待して、ただ、待ってしまう。
でも現実はそういうふうには出来ていない。解決したいなら、その先に進むためには直接、シンジに問いかけるしかない。もう「あの時の続き」を再開させるという選択肢がないということを理解して。それをきちんと「存在しない未来」にして。
ケジメをつけるための問い。
そしてシンジはそれにきちんと答えた。満点の回答。五億点。少しだけアスカが怯んだのは、この答が、最初に再会した時、一番欲しかったタイミングで自主的にシンジから向けられていたらどうなっただろう、というIFの未来を思ってしまったからだ。
でも、そんなIFは存在しない。世界は常に不可逆なのだ。
だからアスカは最後に「あの頃は、多分好きだったと思う」とシンジに伝えたし、それが「きちんとおしまいにする」ということだった。そして彼女は新しい人生を歩む。アスカはフラれたヒロインではない。フッたヒロインだ。強い女。最高にいい女だ。ああ、お前がチャンピオンだよ。
で、次には気乗りのしないことを書くのだが、ゲンドウ、お前はダメだ。まあ、観た人のほとんどがそういうだろうと思うので詳細は省く。
何がダメかって、グズグズのグッダグダになってまでまだ、なんかちょっとカッコつけてるとこが最後までダメだった。ユイさんは何でこんなのをアレしたんだと思うくらいダメ。デカくなった綾波は何で最初にこいつをデコピンしなかったんだとも思う。
ただ、こういう風にゲンドウを「カッコ悪く描く」というところが、この映画が「作者のための解決」になってしまっている証左でもあると思う。たぶん、ゲンドウが読者/作者/登場人物にとって未知の存在、得体の知れない存在でいることを許せなくなっちゃったんだと思う。もともと個人的な動機で世界をメタクソにしてしまう謎の男。手の届かない父親。自分の届かないどこかを見ている人。
時間をかけて、こと、完結するにあたってそういう存在としてゲンドウを描けなくなったのだと思う。
シンジはもう完全にひとりの「英雄」として覚醒してしまったし、彼の物語を完結させるためには父との対峙が不可欠だ。
しかし、これは「圧倒的だった父」を殺す物語ではない。シンジはすでに、父さんにほめてほしかったとか、そういうことをブツクサいう段階を通り過ぎている。父を殺したところで彼に救いは訪れない。シンジを救うためには、彼は、父を「赦さなければならなかった」のだ。
つまり、完結させるためには、風呂敷を畳むためには父もまた人間であったと描くしかない物語だったように感じた。展開のために必要だから必要な動きをする世界。今回、物語のどこにも「やめろ、やめてくれ、おねがい、ダメ、やめて」という展開はなかった。村は蹂躙されなかった。子供は死ななかった。猫も死ななかった。乗組員は大半脱出できた。
「JOKER」で隣人の部屋に侵入したシーン。やめて、ダメだ、止すんだ、という祈るような絶望はこの映画にはない。
物語のためには、意味深な設定や機構の話は不意にノイズと化す。ギミックは早めに畳んでやりたい。展開が、必要最小限の動きしかしなくなっていたな、とわたしは感じた。エヴァンゲリオンの戦闘ギミックも、後半ではもはやただのスパイス程度でしかない。
もちろん悪いことではないが、バトル!大暴れ!血まみれだけど掴む確かなもの!みたいな展開を観たかった人々にとってはさぞツラい展開だったと思う。冒頭のあのわくわくする戦闘はどこ行ったんだって感じだものな。
ともあれ、私は今回、オタクくんとかと一緒ではなく、単独で観に行った。なので帰り道でオタクくんとかの悲鳴を聞けずにいる。インターネットでこれからいろんな考察や感想、悲鳴が溢れることだろう。いいことだ。すごくいいことだと思う。
これからそういうものをどんどん漁りに行こうと思っているのだが、一個、釘を刺しておきたい。
親との対話、というものが描かれているようで描かれていなかったと、わたしは感じている。まあわたしの場合は父が既に鬼籍なので話そうにも話せないというのもあるが、父と話したいという衝動は少しも湧いてこなかった。
描かれていたのは、ゲンドウという男が、親になれなかった「子供」が、ようやくそれを認めただけの話だ。駅のホームで、シンジを抱きしめた絵は誰の夢だったのだろうと思う。ゲンドウは、最後までシンジを見ていなかったと感じる。死んだ妻だけを見ていた。子供が苦手なのではなく、他人が苦手。彼は最後まで自分しか見なかった。自分を超越した妻の幻影しか。
シンジとゲンドウの親子関係は、一方通行のものだったのだと思う。愛してほしかった、と相手に告げる構図は上述、アスカがシンジに問いかけた構図と似ている。シンジは最後、エヴァに乗ると告げた時にもう、父を必要としなくなってしまっていたと思う。それを羽化と呼ぶのか、わたしにはわからない。彼は、父を「赦すため」に逢いに行った。
わたしはまだ、その境地にはない。わたしはわたしの両親に寛容になるべきではないと考えているし、母にそれが伝わることはおそらく、生涯訪れないんだろうなと思いながらも、それが誠実さだと思っている。
わたしは、まだ母を赦さない。感謝し、それなりに愛し、心配もするし健康を祈るが、おそらくわたしは母を、そして死んだ父を赦さない。しでかしたことは許すが、赦さない。別々の人生を生き、そして、わたしの理解できないところに生きた彼らを否定はしないが、赦すこともない。
違和感があったのは、ラスト、カキワリ使ったりメタ世界使ったりと作者の悪い癖の出た親子ロボ喧嘩パートあたり。ゲンドウは赦される側のクソヘタレの癖に導くようなことを言うし、シンジは初めから赦すつもりで向かっている癖にバカ正直にロボ競り合いをこなす。コントロボバトルの過程で、わかり合うシークエンスがあったんだろうかというのを思う。
これはわたしには分かり得ぬ、どつきあいでのみ通じる何かというものなんだろうか。これはとにかく分からぬ。
これが分からぬので、わたしの中では必然の積み重ねでたどり着いた結論というよりも、予定調和のために適度な尺で取っ組み合いを切り上げるシンジとその父、みたいに映ってしまったのは残念な限り。この辺の考察はどっかにより良いものが転がってるかも知らんので見つけたら誰か教えてください。
冬月は、近くに人が来たら相槌を打つだけのペッパーくんみたいな役割なので割愛。
ともあれアスカの救済はほんとよかった。五億点。一千万点。きちんとふたりで対話し、きちんと別離がある。これが最高のシーン。アスカもクローンなのかな。分からんけど、全てのアスカがひとつになって、全てが救われる。救われた。彼女はケンケンのところに戻る。若い奥さん。七兆点。
このあたりの、ひとつひとつ問題を片付けて「しまっていく」様子は、まあ、わるいけど「片付け」なんだよなと思う。盛り上がる「片付け」ってある?わたしは見たことない。だけど片付けは必要。どんな物語にだって片付けは必要なのだ。
ラストバトルがそのまま片付けに直結する、というのは、後始末が簡単なイージーバーベキューみたいな感じでそりゃ賛否両論あると思う。ただ、アスカがちゃんと描かれていたのでこれはこれでいい。万人の納得するものを作るのは、そりゃ、難しいよ。
胸の大きいいい女についても書いておこう。彼女は、最後までよくわかんない人だったにゃー、と思う。テレビ版にいなかったひと、というところで無からポップした新ヒロインくらいに見てたんだけど、ほんとに無からポップした新ヒロインというしかない気がしている。ゲンドウからもキッレーに無視されてるしさ。彼女自身ゲンドウには一切興味ないっぽいし。
嫌いじゃないし、偉いしすごいしエロいけど、保護者なの子供なのウォッチメンなの、というところに答が出せなかったというか、ゴメン!やたら世話焼いてくれるけど何でこの人こんなに良くしてくれんのかわかんない枠!絶対、別のバースからスリップしてきてるよねこの人。スパロボとか。
今度こそ最後なんだけど、サクラちゃんも良かったね。錯乱して「ちょっと痛い思いするだけやから」って震えながら銃撃つ姿は完全に天原帝国氏の作画でした。全性癖が震えた。これから、どうしたらいいのか分からない時はみんな、鈴原サクラちゃんに倣えよな。泣きながら度を超えた暴力。いいよな。あんまり尖った性癖すぎてピンク髪の子ももう台詞取られてたじゃんね。完全な正解。幸せになってほしい。
まあ総評なんだけど、作者が「一人でこれを書いた」のならわたしは全肯定すると思う。例の癖を出した画面作り、ギミック、その辺も好きな人には刺さるんじゃろ。ただ、後半の「片付け感」はどうにも盛り上がらないというか、一緒に作ってる人誰か止めなかったのかなとも思う。尺の問題でもう何も挟めなかったのかも知れないし、苦渋、挟んだのが冒頭の戦闘シーンなのかも知れないけどさ。
ただ、これだけの尺を使って「少し物足りない」という感想が出てくること自体、すごいと思う。ダレたとか、中弛みがひどいとかじゃなくて「少し物足りない」だからね。料理で言ったらフルコース食わされて、なんかちょっと、ラーメンとか、みたいな。それ完全に客の問題だからね。
だからその辺の客の質の問題として、どのくらいの大人になれなかったオタクくんたちが存在するのかというのは単純に嗜虐的な意味で興味がある。
子供に赦されるゲンドウを見て、どんな感想を抱くのかなー。果たしてシンジくんの立場で物語を観られるのか、ゲンドウ寄りになっちゃうのか。その辺にはものすごい興味がある。
個人的には「ロボを!ロボの戦闘をもっと映せよ!」って怒るオタクくんが好きです。冒頭のCMと絡めて、「コングですらゴジラの横っ面張ったんだからよォ!!」くらいの火力だとたぶん惚れる。
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