発信と受信について(2015年5月25日採取)


最近、発信と受信についてまた考えている。僕は基本的に全公開で書くことが多く、別にあえてSNSに軸足を置く意味がないといえばない。
それでも幾つかのSNSを渡り、はぐれ、彷徨ってきたのはどんな心の理屈なんだろう、と時折考える。推測するに、息抜きと匿名性の問題なのだと思う。

自サイトで僕は、匿名性に拘って書いてきた。本当か嘘かわからない記事。男か女か、若いのかそうでもないのかわからない作者。日記なのか物語なのかわからないエントリ。
その方が読んでて楽しいよなあ、と思って書いていて、時折、自分を知っている人々のために、もしくは、自身のことを書くために、匿名でないフィールドで書く。
そういう使い分けをしてきたように思う。

SNSは僕にとって息抜きであり、作家性から離れた場所だった。なので鍵付きやフレンド限定記事は、単にプライベートなことを書くかどうかという基準になる。
以前ほど、僕は匿名性に拘らなくなってきたなあ、とよく思う。僕が信用していなかったのは、身を隠さねばならぬほどの悪意の奔流ではない。反論や批判が怖かったのではない。
むしろ逆で、「あの人が書いているのだから」という、「内容とは別のところで評価されること」だった。良くも悪くも、それは常につきまとう。
文章に限ったことではなく、日常でもそうだ。言葉の内容だけでなく、他の要素が伝達を邪魔したり補ったりする。

僕はそういうのは御免だ、と思う。

書いたものだけ見られていたい、と思う。どんな屑でも聖人でも、その人が書いた詩に、それだけで評価できる目を持っていたいと思う。友達の数ではなく、書いたものの質を見たいと思う。
人の文章を批判するとき、辺縁について言及することを避けたい、と思う。それは、作者が発信していない情報だからだ。お前が言うな、というのはその人の、文章の履歴からのみ語るべきだと思う。
これは別に文章批判の批判ではないので、書き方が難しいのだが、賞賛するときも同じように、書き手の顔を思い浮かべないで読みたいと思うし、読んで欲しいと思う。

難しい。

最初は、もやっとするけれども批判するほどでもなく、自らもその輪の中で遊んでいるので、そもそもなんか悪いことあんのかという「内輪」についてのことを書こうと思っていたのであった。
時折、異常に克己心が隆起するわたくしである。

今回も、なんのために書いてるとか、なぜここを選んだのか、とか、こちょこちょと考えているうちに、なぜだかわからないけれども「このままじゃダメだ!」という結論に至るという。
馴れ合いは楽しいのだけど、心ざわつくような不協和音、ぶつかり合い、思ってもみなかった出会い、などなど。気持ちの良いものだけに囲まれていると不安になる質なのだ。不快を求めるわけではないのだけれど、なんなんだろね。
基本的には、自分の性質がぬるま湯を愛する本質であることと、「何もないその先」を恐れるのが強すぎるんだろうなア、などと思うのであった。

つくづく僕は発表の場に拘ってないなあと思う。
毎日公開フォーラムに個人的な日記を書き残すアレな人にならなかった理由も、カッコとしたものがあるわけではない。見ろよ、見ろォ!というだけの主張がないだけの話だ。

時々隆起する、どうしようもないものだけを掬って物語を書く。この生きにくい世界を生きる力をつけるたび、僕は物語から離れ、数を減らした物語は力を蓄える。
蓄えているのだと思いたいなぁ。

ここから先は

0字

¥ 100

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?