【短編】 ブルーモーメント
『さよなら』に色をつけるなら、それはきっと青色だと思う。
きっと、なにより脆くて美しい言葉と色だから。
清く澄んだ水平線の青。
優しく艶やかな空のセレストブルー。
すっと伸びるあの子のワンピースの水色。
ぜんぶ、私にはもう届かない幻の青色。
それでも私は命綱みたいに、『さよなら』の四文字に縋り付いている。
…
日が沈んでいく間のほんの一瞬。
青空と夜空が混ざりあって、淡い群青色の空が生まれる瞬間がある。
薄明。あるいは、ブルーモーメント。
10分にも満たないその現象が、私があの子と見た最後の青空だった。
私たちはすべて繊細だった。
「好き」と告げてしまったら、何かがねじれ始めて、ちぎれてしまいそうな恋だった。
だから、「楽しい」とか「ありがとう」とか、単純な言葉をどこまでも切実に送った。
いつしか傍にいて、ぼんやりした日常を交わして、ときどき一緒に海を見た。
水平線に薄暗い群青色が溶けていく。
私たちはしばらく石段に腰掛けて、それを眺めている。
私がさよなら、という。
あの子がまたね、という。
それが私たちのお別れの合図だった。
薄明が訪れるとあの子は空に生まれ変わったんだと思う。
あれは、それほどまでに繊細で、美しい。
私がさよなら、という。
青空がまたね、という。
そうして私に夜が降りてきて、あの子はまたいなくなる。幾度も幾度もそれは訪れる。
…
時々恐ろしくなる。
それは、苦しむことすら出来なくなった日のこと。
この愛と青と呪いを全部忘れて、何色でもない私になった日々。
さよならなんて祈りを、ただ気が合うだけの恋人に囁いてみたりする。
居心地のよいカフェで何も考えず、夕日を眺めている。
もともと空に意味なんてない。
意味を見出しているのは、人間の側だから。
だから忘れてしまえば、薄明はただの空でしかない。
私は、そんなの、絶対に嫌だ。
…
儚げな霞空をカモメが飛んでいく。
海からはあの子と同じ匂いがする。
水平線の向こうに重い群青色が溶けて、ささやかな波をたてる。
『さよなら』に身を浸して、深呼吸をする。
例えばそれは、砂浜に丁寧に揃えた運動靴。
あるいは、プレゼントでもらった髪飾り。
あの子と交わした最後の手紙。
そして、私そのもの。
全部いつか滅んでしまうもの。
あぁ、
さよなら、
薄明。
さよなら、
私の青。
忘れたりなんて絶対、しない。
この短い命が海に溶けきるまでは、私は呟き続けると決めたから。