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東大文学部を卒業した坂田防衛庁長官は、防衛医科大学校でドイツ文学を講義した
昨年、久々に東京に行ってきました。
防衛医科大学校の学校長が替わり、そのお祝いの会に呼ばれたので、行ってみました。
市ヶ谷にある防衛省の近くのホテルで開催されました。
防衛医科大学校は、昭和40年代に自衛隊の医官不足が深刻となり、それがきっかけとなって設立されました。
当時の自衛隊の医官の定員に対する充足率は、
20%以下でした。
これでは部隊編成ができないと、立ちあがったのが、時の防衛庁長官の中曽根康弘大臣です。
自前で医官を養成しようと、自衛隊の医科大学をつくることを決心しました。
真っ先に相談を持ちかけたのが、大学医学部を所管する文部大臣です。
時の文部大臣は、熊本県選出の坂田道太大臣でした。
中曽根長官から相談を受けた坂田大臣は、厚生大臣をしていたときの宿敵である日本医師会の武見太郎会長に相談をもちかけます。
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当時は、自衛隊に対する反感は強く、中でも医療界では、自衛隊が医科大学を持つことなどまかりならん!、という考えが大勢を占めていました。
しかし、武見会長は、坂田文部大臣から話のあった、自衛隊の医官を養成する医科大学の創設に賛成し、応援したのです。
中曽根長官、坂田大臣、武見会長のビックスリーが合意したことにより、医官養成のための防衛医大の創設が進められることになりました。
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坂田道太議員は、三木内閣では、防衛庁長官に任命されました。
文教族で安全保障や防衛には全くの素人でしたが、防衛政策の大綱の策定、防衛白書の刊行など、現在に続くさまざまな防衛政策を進めていきます。
専門家による防衛論ではなく、国民による防衛論へと転換させていきました。
三木内閣を支えたのが、中曽根幹事長でした。
東大の文学部を卒業した坂田防衛庁長官は、防衛医科大学校で学生相手に講義をしています。
ドイツ文学を専攻していた坂田長官は、
ドイツ人の医師で作家のハンス・カロッサの「若い医師の日」という本を使って講義をしました。
カロッサは、軍医として第一次世界大戦に出征もしています。
坂田長官、いや「坂田教官」は、
医科学生相手の講義を楽しんで、
かなりの部分は即興でやったそうです。
私は、防衛省に勤務していたときに、坂田長官のこのエピソードを知りました。
防衛医科大学校の学校長に伝えたところ、大学校の図書室にあった本を届けてくれました。
それは、ハンス・カロッサの「若い医師の日」でした。
表紙の裏には、「昭和51年9月1日坂田長官より寄贈」というスタンプが押してありました。
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その後、防衛医科大学校で医科学生に講義をした大臣はいません。
坂田大臣は、国民皆保険を実現したときの厚生大臣をしており、「仁」の心を持った大臣だったと感じています。
今般、石破内閣が誕生しました。
防衛大臣経験者が総理大臣になるのは、中曽根総理以来のことです。
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釈迦に説法ですが、各閣僚は、孫子の兵法の「智、信、仁、勇、厳」を忘れることなく、国民のために全力をあげて職務を全うしていただきたいと願っております。
仁の心が大事です。