恋について

今まで、散々、飽きるほど、愛という言葉を語る人間を見てきた。そして、愛という言葉に唾を吐きかける人もいた。愛の存在を信じることは一つの信仰に過ぎない。信仰とは生きることを楽にすることだ。神の存在を信じる者は、いつだって神に責任を擦りつけ、偽りの罪を背負って生きている。別に誰かを批判しているわけではない。人間はそれだけ弱いということを言いたい。弱いなりに、実在を捏造することによって“正しく”生きる道を築いてきた。どれだけテクノロジーとやらが発展したとしても、この弱さは人類が滅びぬ限り消えぬものだ。僕がフロムの言葉を愛するのは、彼が多くの人間に信仰を提供したからだ。世の中には手を貸す振りをして破滅を案内する鬼畜に溢れている。



愛について語る人間が避ける言葉が1つある気がしている。恋ってやつ。



普通、文字というものは、奥行きを感じさせる。文字の書かれた紙に、画面に、その言葉の影が映る。(僕が知らないアラビア語の文章を読まされても、それは淡白な落書きに他ならず、それがアラビア語だと知る術もないのだが。)

この恋という文字は、僕にとって、まさにそのアラビア語の文章と何も変わらない。奥行きもなければ、影も感じられない。掴めるものがないから語れることもない。



中学生の集団を相手に話をする時に、愛の効用について喋ってみたことがあった。その話題を持ちかけると、彼ら(彼女ら)は口を揃えて「恋でもしてるの?」と聞いてくるのだ。不思議だ。僕が話しているのは愛だ。「ちゃんと話を聞きなさい笑」と誤魔化しながら笑い方を真似することしかできなかった。

彼らにとって愛と恋は隣接している。文系と理系に進路を隔てた双子のようだ。ただ、愛を語る人間が恋という言葉を出さないのは、彼らにとってその2人は交わることのない赤の他人だからなのかもしれない。どっちが正しいなんてことはない。言語使用者にとって最も正確な辞書はその使用者の中にある。

ただ、神を信仰しない自分のような人間が、日本語を喋る際に愛と恋を切り離すのは客観的に見てクスッとくる。だって、僕の知る限り、他の言語はその2人を区別しない。英語ならどっちを語るにしても”love”を使わなければならない。もっと遡ってラテン語なら”amor”である。この現象は、神にすがる術を失った日本人なりの自己救済と言えるのかもしれない。



あーあ。いつか自分も、あの中学生たちと肩を並べて「恋」を語れるようになりたいな、と。