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末原拓馬奇譚庫を訪れました記録
"人生は±ゼロにできている説"に関して異を唱えている。
だって「これを知られたという事実で勝ち越し確定じゃないか!」という愛おしいものって存在するよ。
末原拓馬奇譚庫、に訪庫してきた。脚本から大きく逸れる感慨については一旦なるだけ切り離して、物語の筋と演出についてメインにアウトプットしたいなと思う。
全公演を終えたのでネタバレなどを気にしなくていいと判断して書きます。
でもあらすじを書くつもりは無いです。
要するに、観た人向けの文章になります!
(1/27追記
としもりさんの配信を聞いてちょびっとだけ書き足したり書き換えたりしました。見せ消ちにして元の文章も残しています。)
多分に記憶違いがあると思います。
そしてあくまで個人の感想・解釈です。
他の方の観たものを知りたいわたしが、代わりと言ってはなんですがと差し出す感想文です。みんなたちの感想文も見ーせて。
客入れ・プロローグ
客席の高さで第一声があるの、テクい開始だ。
立ち位置にやってきた橋本さんに気付いていなければ、参加者は背後から突然に声を聞かされるわけで
おぼんろ(の、ちょっと前までの)作品の「最初の場面はお耳だけで」システムを思い出す。
「目を閉じて、想像してみてください」と誘導する拓馬さんがいなくても、それは機能していた。
あの前説、すっごくすっごく好きだったのだけれど
無いなら無いなりの美しさがあるものね。
パダラマ・ジュグラマの再演で、立派に&ステージ上だけに作られた舞台美術を見たとき
「ゴミ、ゴミ、ゴミ……舞台美術はすべてゴミ!
ゴミに囲まれた皆さまもいわば……」
というくだりはもう無いのだなと思って、少しさみしい気持ちになったりしたのさえ、今は昔ってやつか。
囲まれていなくて、あ、
— ラウル (@l_a_w_l) February 19, 2022
舞台美術はすべてゴミ
ゴミに囲まれた皆さまもいわばゴm
\こら/
が無いんだな、とか pic.twitter.com/YhqY1tbfTL
拓馬さんが「皆さまもいわばゴm」くらいで言い切る前に
「こら。」と楽しげに諫めるとしもりさんも
「皆さまもいわばゴミ!」と断言させた上で
「おいww」とにこにこ突っ込む倫平さんも
それぞれに好きだったな。
今回はステージ横の壁や機材にまでテープによる美術が及んでいて、
そこは少し懐かしい気持ちでした。縦横無尽スタイル、やっぱり強い。
ホールミクサを奇譚庫に、観客を庫訪者にする。
一応の"主人公"として設定されているであろう青年にメインの照明が当たるものの、
パキッと明確なスポットライトではなくて、
ただ視線を誘導するための一応の目印とでも表現したらいいのかな、
強制力のない光でしかない。
ピンスポと言えばピンスポなのだろうが、周りを真っ暗に沈ませるようなライトではなかったのよね。
だから庫訪者は見たいものを見たいように見ることができた。
先導するように左右を歩いていく譚守の背中を追うこともできたし、
揺れる光が天井や壁、自分の膝なんかを這うのを注視してもよかった。
(目が照明を向いても充分に届く橋本さんの声のお芝居、流石でした!すごい!)
譚守2人が幕を引いて短編連作が始まるのも素敵だった。
本公演であればタイトルコールに相当するところかな。
あの特徴的な音楽がラジオ番組のジングルみたいに場面を区切って、
それまでユラユラ、ひらひら、不思議な重力で動いていた譚守がどっかと座る。
"譚守"が"老人"になる様を、舞台の上でやってみせるのがとても良い。
一旦ハケてから老人として出直すのでは出せない凄みがあったと思う。
あと些末な感想をもう一つ。
舞台上で「すみっこ。すみっこもすみっこ、すみっこのなかのど真ん中。」だったのが
が台本だと「端っこ、端っこも端っこ、端っこと言う場所におけるど真ん中。」である差異が興味深い。
「ど真ん中」という関西弁がいきなり出てくる面白さもあるが、
何より「隅」と「端」の改変である。
セリフとしての言い易さだって違うのかもしれないけれど
言葉の意味として「隅」と「端」は全く違うものね。
「端」は平面的な、長さがあるものの先っぽだ。一~二次元的と言い換えてもいい。紙の端、道の端、糸の端、列の端……
「隅」は立体的な、空間における角だ。三次元的である。部屋の隅、引き出しの隅、公園の隅……
活字の奇譚庫が「端」で、舞台の奇譚庫が「隅」なの、そりゃそうだ。
二人三脚の小屋
末原拓馬脚本について、個人的には予想を裏切る展開が少ないと思っている。
より正確には、予想通りに裏切ってくると思っている。
ストーリーのオチ・サゲという点では王道で、最初に「あ、こう展開しそうだな」と思ったときはその通りになることが多い。(それが悪いという話ではない! 分かった上で、それを味わいたくて参加している!)
今回で言えば『二人三脚の小屋』もこのタイプ。自分の話をするのだろうなと思って聞き始めた。
「最初の青年自身が物語だろな」とか
「こいつも悪口言われんだろな」とか
「……っていう台本でした、のパターンだろな」とか
「彼は呪いの夢から出らんないんだろな」とか
期待通りに回収してくれたのはこの奇譚に限らないのだけれども、まぁ最初の短編ということでここに書く。
老人の声と、右側の子供と、左側の子供。
使い分けでシンプルにびっくりするよね。
や、末原拓馬という俳優がそういうことをやって見せてくれるってのは知ってたけどさ。
わたしとしては、向かって右側の可愛らしいお声よりも、向かって左側のややペーソスを含んだようなお声でやる子供の表現が好きです。
右側タイプはタックとか。左側タイプはホシガリとか。
(もちろん右側タイプも好きではあるわよ!)
二人三脚で中央の足を切り落としたら、二人を結わえる紐はなくなるはずだ。
それでも「来月はこの胴体の肉も縫合してもらおう」と言いながら2人で過ごしたのだから、隻脚になってからしばらく2個体でいたということになる。
二人三脚がしっくりきて、最初に"二人三脚"ではなくなっていたのだなと考えたらちょっと面白い。
二人三脚で息を合わせて動かすのは真ん中の足だ。
リズムを整えつつとはいえ、それぞれの外側にある足は自分の意志だけで動かすのだから。
まっさきに真ん中の足を不要だと感じた2人は、だから、2人が2人として寄り添う幸福を最初に手放してしまったのだと思う。自分の意志で動かす側の足を残して、お互いに思いあう側の足を切り落としたのだ。
(ここで歩けないことを「惨めなもんさ」と言っておくことが後々別の奇譚に効いてくる技巧、重いレバーブローだ)
肺は4つもいらない、腕も4本はいらない、と同化して(どうかして)いった1+1の誤算は、当然の帰結だろう。
…………とかなんとか、本当の話だとして書いてみたものの
ぜーんぶ頭のおかしい老人が語った与太かもしれない、のセンが残っているのよね! 聞き手をうかがって「そうかい、あんまりかい。じゃあこういうオチはどうだ」と展開を変えようとするくだり、このあとすべての奇譚に、この舞台作品としての『末原拓馬奇譚庫』そのものにもかかるのだと思う。
はっきり半身だけ照らす部隊の照明に誘導されて我々がまんまと誤解しているだけで、小屋の中はそんな風じゃなかったりしてね。
そのくらい愛する誰かがいてほしかったと願望を込めて語る孤独な老人の妄想だったりしてね。
そのくらい愛し合いたかった誰かを思い出しながら語る孤独な老人のデマカセだったりしてね。
(少年同士っぽい2人の表現や驚く周囲という描写を入れておいて、「唇を重ねることもできない」と性愛じみた後悔を述べる老人が何を求めていたか、邪推しようと思えばいくらでも邪推できてしまう)(脚本では「老婆」になっているところを実際のステージでは「老人」と変えてきていたしね)
そして老人の語りをじっと聞いている青年の表現がまた素敵だった。
語りの邪魔にならず。でも確かに驚きや戸惑いの演技を乗せてそこに立っている橋本さんの、俳優としての力がすごい。
存在感の出し入れとでも表現したらいいかな、必要なときに必要な分の視線を呼ぶ佇まい。
すきとおり
好きと檻。透き通り。ハイ好きー。言葉選び大好き。だーいすき。
今回の奇譚の中でけっこうストレートに愛の話だなと感じた一作。
シンプルに言葉通り、バケモノとバケモノに愛された男の話だと受け取ればひたすらにLOVEの話。
ただ敢えて、わたしがどんな風に寓話として見たかという文章を残すのであれば、それは治療の話になる。
わたしが見たものを俗に落とすと
化物は錯乱する恩人(たとえば母)
男は守られてあった者(たとえば子供)
冒頭の一定間隔で繰り返す無機質な音は
時計、あるいは心拍計を想起させた。
鉄格子はベッドの柵であり、肉体そのもの。
男の戸惑いと怒りとやるせなさと無力感に、様々な理が彼女自身に閉じるようになった母を見た。
あとで"黄色ってのは狂気のメタファー"というくだりがあるけれど、ここで鉄格子をあらわすであろう照明も黄色いのだ。
見ているものが連続しなくなって、彼女の普通と彼女以外の普通に齟齬が生じて、社会と彼女はそれこそ生クリームとカナブンのように相性の悪いものになって、そうしたときに、愛の形として現世に留めおこうとする息子。という比喩として観られた。
わたしにとって母息子がストンと落ちただけで、あるいは別の関係であったかもしれないが。
透き通り、が死かどうかは分からない。違う気がする。
肉体が死なずとも失われることはあるからだ。
その例として、わたしの最も身近なサンプルは祖母になる。(我が母は記憶にある限りずいぶん昔から"変形"していて、ゆえに変わりゆく姿として思い起こせるのは彼女の母の方である。世間では母親が子に施すとされるであろういくつかを、わたしは祖母から受け取っている。)
祖母は理知的で愛に豊かな聡く凛とした女性であった。わたしは宗匠のことを愛していて、きっと彼女もわたしが好きだった。
宗匠がわたしを認識しなくなったとき、彼女が失われたと思った。
身体としてはそこにあって、たしかに生命活動は続いていたが、わたしが世話をするのはわたしのおばあちゃんではなく、そこにある肉だった。
物言わぬ肉であればまだマシだ。理性がこの世と噛み合わなくなって、その肉はかつて親しんでいた相手を憎み、敵視し、ときに暴力的な行動をも選ぶ。
そうなったとき、"心に訴えかける"を肉に向かって試したところで不毛だ。無意味どころか、今の肉にある自我に、より嫌な奴としてわたしが認められるだけ後退だ。
こちらからは一切のパターンが無いように思えて対応に消耗する、そのあらゆる言動が彼女にとっては当然の真実であるらしいから。
過去たしかに愛し合っていた、今でも大切にしたい、未来にも大切にしたい、しかし難しい、眼前のそれが化けてしまった物だと感じる自分の薄情さに吐き気をおぼえながら、でもこうじゃなかったらよかったなと夢想せずにもいられない、在ってほしい、絶えてほしい、愛してほしい、愛されてほしい、幸福であってほしい、幸福にしてほしい、肉が気持ち悪い、肉が気持ち悪い己が気持ち悪い、助けてほしい、「分かってよ」
という温くて湿った生臭い情動を、とびきりファンシーにポップにキッチュにキュートにリリカルに述べたら
男の慟哭になるのではないかしらと思う。
化物が男を愛しているような素振りをみせるとき、あの肉もときどき肉でなくなった気がしたな、と記憶が呼び起こされた。
化物は終始LOVEを叫んでいたものの、そうと分かるのは傍観している我々だからで、男には通じていない。時折何かしらの思いを以て体を動かしているらしいことは察して、でもそれが精一杯のようだった。
わたしが男のそばに立ったのならば、化物は、ベッドに拘束された肉とそっくりに見えた気がする。
苦しい日々でなかった、とは言わない。
生理的嫌悪を誘う饐えた匂いや老廃物の汚れを、喜んで受け入れるのは並大抵のことではない。それは"見るも無惨な"姿であったもの。
でも、だからこそ、彼女の(我々が定義するところの)理知が見えなくなったとき、彼女が彼女として苦しむことが無くなったのだと思えばわたしは救われた。救われたと気付くのは少し遅れたけれども。
「しわがれるものよ、声なんて」
と、同一性を保てなくなることを受け入れている化物が
それでも「消えたくない」「ここにいたい」と言葉にする哀切さに毎回ゾクゾクした。
この「しわがれるものよ」で声色を変えてくる三上さんが……ずるいんだぁ…………。何がずるいって、どこか綺麗なのがずるい、完全に醜い化物の声じゃなくて、在りし日の"朝日の中で囀る小鳥のような、春の雪解けの音色にも似ているような、そういう声"を想像させる、しわがれつつも僅かに澄んだところが残る声。物凄いバランス感覚だと思う。
そして目玉が飛び出るかと思った演出、崩れ落ちた男と屈む化物の影が一体化するやつ。
鉄格子は終始照明によって表現されているのだけれど、
ライトの前に演者が立てば、当然そこに演者自身の影が重なるわけだ。
照明、照明に背を向けてうずくまる前川さん、前川さんを見つめる向きで座る三上さん。この三点が一直線上に並ぶとどうなるか。
影が一つになる。
「私は、影ばかりになってしまう」
と立ち上がって黄色の檻をすりぬけたあと、三上さんは薄暗い舞台中央寄りへ移動するから、影は前川さんが落としているものだけになる。
でも、檻の中の影は動かないのよね。
天才のライティングじゃん。天才でなければ鬼才のライティングじゃん。
奇譚だから奇才の方がいい?
とにかくヤバすぎる。何を食べたらそんなん思いつくの?
わたしが受け取った物語としては、化物の最期は死ではない。死みたいに不可逆な、ある種穏やかな、優しいものではなくて
もしかしたら昔のような関係をもう一度築けるんじゃないか、って諦められないからこその檻。
たとえば老いで様々な認知能力が生活に足りなくなる、というような"変形"ならそれは(それもひどく辛い介護生活ではあろうが)到達する場所は見えている。
わたしには、舞台の上がそう見えなくて。
「忘れたくない」は、希望(あるいは執着)を捨てたくない、でもある気がした。理性の明滅とでも言えばいいかしら。
化物が檻をすり抜けて、男に寄り添い優しく撫でるのは、わたしにとってあまりに都合の良い、とても美しい光景だった。彼女もそうであったならいいな、という寛解の夢を見た。わたしも愛されるものであれたいな。
あの化学実験が行われた次の年に、この町で生まれた私たち四十八人の新生児は
最初に 脚本から逸れる感慨については一旦なるだけ切り離して、物語の筋と演出についてメインに と書いた。
頑張る。頑張ってみる。…………めちゃくちゃ難しいぞ!
ひゅうひゅうと風らしい音。
どうやら室内の檻らしかった『すきとおり』から一転する、この落差がいい。(『すきとおり』でわたしが病室を想起したことを抜きにしても、人目を避けて閉じ込めた檻は、動物園みたいな屋外の檻ではないと思うわ)
直前に大きな声(前川さんの喉の鳴り方、本当にすてきだと思う。力がある。)を聞いたばかりの耳に、静かな静かな声が沁み通る始まり方。
緩急がすごい。短編連作のおいしいところって感じ。
まーなんだ、
こう、語弊を恐れながらも諦めて言語化すると
「野生の末原作品だ!」
って感じ、の、お話だったな。伝わるだろうか。伝わらない気がする。
おぼんろじゃなくて。末原拓馬の末原拓馬部分。
こういうのを奇譚として奇譚庫に所蔵することが奇譚庫の仕事なのかなと思う。
実は前もって、「今回としもりさんに渡した独り芝居は、自分が路上時代に毎晩都会の街中でひたすら繰り返したもの」という拓馬さんのXが目に入っていて
ひとりでひっそりのたうち回っていたのだった。
末原拓馬奇譚庫。短編、短編、短編。本日はとしもりさんとサシ稽古でした。みんなそれぞれ10本くらいの作品に出るのだけど、今回としもりさんに渡した独り芝居は、自分が路上時代に毎晩都会の街中でひたすら繰り返したもの。演出をしていて、とてもとても不思議な、だけど素敵な気持ちになった。 pic.twitter.com/YzW1pYtvQ1
— 末原拓馬 (@takumaobonro) January 11, 2025
路上時代の一人芝居って『捨て犬の報酬』? でも時間的に長すぎる気がするし、一人で生き残れるタイプの物語っぽいから奇譚扱いはされなそう。
『老人はリュックから裸電球と太鼓を取り出した』とか『塵捨て場のサンタクロース』とかも気になったけど一人芝居ってやつではないし、『SILVER VINE』も路上時代の作品ではないわよね……?
などという考えても仕方ないモダモダした日々を踏まえて
さあ答え合わせの時間だ!と確かめる
…………には、とてもとても強すぎる引力で物語が展開するものだから
目の前の奇譚を受け取るので精一杯だった。
淡々と、と書くとちょっと不足感がある浪打ちかたをしながら、それでも謐々と話が進んでいく。
当時の"私"が死ぬほどつらくて悔しかった、心底嬉しくて幸福を感じていたダイナミックさ
それを振り返って述べる今の"私"のスタティックさ
相反するようで地続きの絶妙な足し引きを、違和感なく、あるいは狙った通りに適切な違和感を伴って見せられているなと感じた。
大きく揺れて、激しく煌めいて心を揺する拓馬さんのお芝居を、わたしは時々スプリングのようだと思う。
ベッドのコイルのように誰かを癒すこともあるし、ノック式ペンの内部機構じみて誰かを助けることもある、ただそれ自身だけのイメージとしては勢いよく弾んで思いもよらないところへ飛んでいく圧縮コイルばね。
対して、としもりさんのお芝居を、わたしは板ばねに例えたくなる。
薄く、しなやかに、やわらかく撓んだ上で尚まっすぐに伸びる、ひんやりと冴えた金属板のイメージ。
ストーリーは間違いなく拓馬さんによる拓馬さんらしい物語なのだけれど
拓馬さんが演ったらこの景色にはならない、と確信できる作品になっていたと思う。
ただ、同時に、拓馬さんの作品ではこれが満点回答なんだろうなとも思う。
たとえば歩く練習の説明。言葉が入るより一拍先に崩れてみせる、関心を誘ってから猫写に移るやり方とか
演劇の技術的なことには明るくないわたしにさえ、きちんと上手くやらないとひどく不親切で不快なつくりになるって分かる。
そこを丁寧に、物語の世界に引き込みながらも必要な情報は感情に流されないように渡す、真摯なお芝居として提供してもらった感動。
拓馬さんの本だ、って思う。仕組みが拓馬さんのやつ。
そのレールに乗って、仕組みは末原作品そっくりそのままで、でも「じゃあ拓馬さんが演ればいいじゃん」にならないお芝居。
うまく説明できないのだけれど、拓馬さんによる拓馬さんの作品って、無自覚に方言を使っているひとのおしゃべりを想起することがある。
としもりさんが演ると、自分が方言話者だと自覚した上でお国言葉で話すひとになる、という比喩が近いかしら。
演者の体内からランダムに迸るエネルギーが持つ格好良さとは別質の、これはこれとして鋭利で峻険な格好良さ。
ロジカルに、かつ深い情とともに
思いっ切り、かつ地に足つけて
という眼の前のお芝居そのものが持つ対極的な要素が
作中の"私"の揺らぎとリンクして流れ込んでくる。
タイムカプセルを読み返すシーン、"私"の情緒不安定さにザワザワする。
手術の前は欠陥が明らかで、だから心身の指向性が合致していた。
歩けるようにというのは生まれつきの身体能力に対する戦いであり、何度もよぎる「死のうかな……」との戦いでもあったはずだ。
「歩きたかった」ではなく「歩く練習がしたかった」という世界の狭さも聞いていて苦しくなる。歩けるようになって何がしたいというのでないばかりか、歩けるようになりたいですらない視野。きっと本当に毎日が苦痛で、未来のことなんて深く考える余裕が無いのだろう。未来の私へと隠す手紙で「歩けるようになって何をしているか」ではなく「どれくらい歩けるか」を問う想像力の限界。
8歳までの子供が抱く思いとして真っ当に未熟で、同時に8歳までの子供が抱くにはあまりに夢がない。辛い。
一転、手術のあと。
肉体は軽く力強く、"生活しやすい"ふうに造り替えられて。きっと生身の大人よりも丈夫なのだと思う。("私"の手術に反対する"おばあちゃん"がいたのだから、実験前の大人は少なくとも"私達"とは違ったはずだ。)
心はどうであったか。
過去の自分を嘲笑い、その努力や感動に否定を叫ぶのが、健やかだとは思いがたい。
今どんなに簡単なことであっても、当時の困難が遡って些末になることはないのに。私は変わったと高らかに宣言したのはなるほど事実だ。
最新技術で強く強く改造された肉体を持ちながら、憂えるのはきっと難しいことなんだろね。
体が作り変わるだけ、でなんて、いられるわけがない。肉体の健康状態が精神に作用するのは納得できる。
分かりますよ。
よく分かります。
でも、その表現としてさ、
ふんふふん、ンー↑
の鼻歌を出されたら泣いてしまうでしょうが!!!!!
なんてことを
なんてことをしてくれるんですか
どちらですか
どなたが思いついたんですか
わたしの情緒がめちゃくちゃですよ
もしかすると本筋に関係しない、ちょっとしたサービスのつもりかも知れませんがねえ!?
ちょっとしたサービスで致命傷くらう参加者の身にもなってください!!!!
ありがとうございます!!!!!!!!!!
大好き!!!!!!!!!!!!!!!!!
(1/27追記
としもりさんだった…………
ちいさなプレゼント、って、ちょっと過小評価じゃないですか。
ちいさなわけあるか。ウワーーーーーーーッ!!!)
アゲタガリのこと、ほんとにほんとに好きで
既にアゲタガリのことを思うとほぼ24時間365日年中無休で泣けるのだが(これを書いている今も顔面がべちょべちょだ)、"私"とアゲタガリを対比して考えたらより泣けてしまう。
完全に作られた肉体で、
錆びて壊れた機体で、
鼻歌は同じ鼻歌としてあるの、あまりに優しくて美しくて綺麗でかなしい。
"私"が「幸せなんだと思う、きっと」と言ったように、アゲタガリもそのとき「今、幸せだ」って感じて歌ったと思いたい。
アゲタガリはロボットなのだけれど。アゲタガリ自身の感情は全編通して説明をされないのだけれど。アゲタガリに感情があるかすら、実のところ怪しいのだけれど。
わたしの勝手な願いとして、幸福感のあらわれであってほしかった。
"完全に作られた体"は限りなくロボットに近いものなのかもしれない。外の空気を吸っても"壊れない"と表現していたし。
ただロボットじみていたとしても、強靭な肉体を得た"私"と捨てられたポンコツである"L219323"が並ぶのは、こう……普遍的な幸福ってやつを信じさせてもらう、心の武装になるなと。
そんなもん無ぇよと吐き捨てそうになる毎日に対峙するために握るナックルガード。
実験の全貌は語られない。
どーせロクなものでは無いのだろうが!
"私"がその内容をどこまで知ったのかも明らかにされない。
入口の天井が崩れ、その瓦礫の下敷きになる≒入口からそう遠く離れていない ということになる。きっと中枢部までは至っていない。とはいえ15×15=225平方キロメートルの立ち入り禁止区域はずいぶん広いから、ドームに至るまでに目にしたものもありそうだ。どうだろう。
詳細を説明されない我々が教えてもらえるのは"私"の冷静な分析と自己評価でしかない。
「私は今、痛みを感じません」って、"私"が言う。
痛くないわけない声で。痛くないわけない目で。
初日は声色や表情よりも話の全体としてそれを伝えてくれるお芝居だった気がした。いわゆる小劇場演劇ってやつらしい描写というか、長編歴史小説の、敢えて受け手を突き放すように描かれるワンシーンみたいな、重くも乾いた空気感というか。
2回目夜以降はもう少し湿度を感じた。観るひとと演じるひとによって完成される舞台作品として途中から調整が入ったのかなと思ったり。それぞれに魅力があるからどっちが優れているという気はないし、そもそもこの違い自体がわたしの誤解で、回を重ねてわたしが変質しただけかもしれないが。とかなんとか予防線を張りつつ、いや絶対に変わってるよと思う自分もいる。公演中に(肉体的な限界や、別の方による理由を除いて)としもりさんのお芝居が大きく変わった例が記憶に無いもの。(1/27追記
Twitchで少しだけ裏話を聞いて。
初日のあと拓馬さんととしもりさんの間で話があったそうで。
やっぱりそうかぁ、と。)
8歳で手術を受けるまで、"私"にとって「痛み」は毎日の歩く練習の(と、きっと練習以外にも有ったであろう様々な)身体的苦痛についての言葉であったのか、という納得がある。
悔しいは言っていたし、自分のことを何の価値も無いと思ってもいたようであるけれど
それを「痛み」とも表現することは誰からも教わらずにいたのだろう。
教えてくれるひとはいなくなってしまった。
今の"私"が何歳であるかの明確なヒントは作中になくて、ただ施設が廃墟となっていることを時の流れの手掛かりとして情景を見る。
建物がひどく老朽化しているということは、"私"に歩く練習をさせた人々はもういないのだろう。
医者の先生が48人を診るプロジェクトチームの一員であったのか、48人を助けんとする外部の人間であったのかは分からない。(おばあちゃんが反対したのだから、強制できる権力者ではなさそう。)
何にせよ情緒面でのサポートが十全であったとは考えにくい。きっと"私"は肉体を弄られるばかりであった。
「どれくらい歩けていますか」の答えが
「ここまで歩いて来られた」で
戻ってきているということがひどく悲しく、同時にとても優しい物語だと思う。
遠く遠く、広い世界を旅して果てるのではなくて
自分のルーツを求めて帰ってきたのが"私"の到達点だったこと。
その場所で、あんなに生きたいと願っていた"私"が「死ぬなら死ぬで、しょうがないか」と述べること。
残酷な結末と感じるひともいるだろうな。
わたしには、あの妙に明るいさっぱりした「しょうがないか」が綺麗だった。
どうしても知りたくて、あの化学実験が行われた場所に歩いていく。その渇望は、身体的な苦しみに悩まされなくなってようやく手に入れた"私"の意思なのだと思う。
「歩きたい」でなく「歩く練習がしたい」とまでしか想像を広げられなかった"私"が
どこまででも歩ける体を手に入れて、やっと時間的な広がりを持つ世界も見られるようになって
過去のことを知りたいと行動できるようになった。
それはとても尊く美しい成長である、と、思う。
同時に、そうやって今に繋がる過去に思いを馳せられるようになった"私"であるから、これから自分がどうなるかも試算できてしまう。
この場所には誰も来ない、と自分で言った。一応の可能性として誰かに発見される未来も口にしてみてはいるものの、まぁ信じてはいないだろう。
痛みも感じず、空腹も感じず、ただただエネルギーが尽きる瞬間を待つだけだと分かっている。
そんな状況で、静かにあれるのはどうしてか。
既に狂っていて、狂気の結果として穏やかなだけなのか。
どうだろう。
わたしはあの諦めを、無念ながらそうするほかなくて嫌々飲まされたものではなくて
同じ「あきらめ」であっても「諦め」というより「明らめ」に近い、「事実がつまびらかになって、成らないことに納得して執着から解放される」とでも書き換えたらいいかしら、とにかく澄みきったものだと思いたい。
もちろんかき混ぜれば沈んでいた澱がすぐに舞い上がって濁るのだろうけれど、それでも透明な、凪いだ湖面のような諦念。透明な、凪いだ湖面のような、しかしかき混ぜれば沈んでいた澱がすぐに舞い上がって濁るのであろう諦念。
どちらに重心をおいても同じことだ。
穏やかであれてしまうこと自体が罰のような、静かな無人の廃墟を、美しいと感じてしまうわたしが残酷なのかもしれない。
ところで、あの、
奇譚庫楽しかった
— よこち (@LeichanKT1) January 25, 2025
48人の新生児の話で、ふとなんとはなしに振り返ると客席の後ろの方で末原さんが観ていらしてびっくりしたし、
その中で歌った鼻歌ってもしやヴルルのときと同じメロディ…!?と思ったり
すきとおりは何回みても初めて見たように泣くし
4日間通して最高の時間でした
#末原拓馬奇譚庫 pic.twitter.com/QAmYzVNlMs
これ本当ですか??? 拓馬さんいらしたの!?
舞台の上に意識が向いているシングルタスクマンわたし、全く気付かなかった……
或る奇譚にまつわる奇譚 職業体験
前川さん譚守と三上さん譚守の「バイト先の、ちょっとだけ先輩である下っ端仲間」感、好きだなぁ。
直前のシリアスな空気を良い意味で吹っ飛ばす、軽快でカジュアルな掛け合い。
また三上さん譚守が客席隅から出てくるのが巧い。観測者、傍観者として前の奇譚を観ていた我々を再び庫訪者にする。前川さん譚守が観客の頭越しに三上さん譚守を呼ぶせいで、今まで観ていた"ドーム状の実験施設"が今度は"ドーム状の奇譚庫"になる。
そんで迷い込んだ彼が譚守としての装束を着せられるまで
2人は彼をしげしげと見つめるばかりで、けして触れないのも巧い。
(回変わり演出では闘牛士のようにヒラヒラ躱すことさえあった!)
彼に触れない、というのは冒頭の悪趣味な(笑)譚守たちもそうだった。としもりさん譚守は近づくシーンが少ないため分かりにくいけれど、拓馬さん譚守はがっつり飛び退いて移動を始めていたように思う。
袖を通してからは肩を抱き背を叩きとボディタッチが急に増えるから、きっと狙っての演出なのだと判断した。
彼が彼として存在するとき、少なくとも今は、触れない。
悪口屋
ろ、露悪的〜〜〜〜!!!
ダーク末原拓馬、だーいすき。
コミカル藤井としもり、だーいすき。
この物語も"奇譚"なの!? 自力で生きていけるでしょ!? というのが正直な感想。
そりゃいわゆる商業演劇ってやつのラインに乗せるにはちょっと難しいかもしれないけれど
他の奇譚よりもずいぶん生命力が強い物語という印象だった。
始まる直前、場面転換の瞬間。
押されてつんのめった譚守志願者からクルッと阿玉という奇譚の中のキャラクタになる切り替え、よかった……おぼんろ作品ではよく見るあの空気の変質をおぼんろの語り部さんではない方で見るのは新鮮だ。
通路横の座席の回はとくに、戦うヒロインアニメの変身シーンよろしく空気が変わる様を間近で見られて嬉しかった。
ほぼ同時に、前川さん譚守が暗くなった舞台の上で上着の紐を解く仕草も、とてもよかった。
バッと裾をひらめかせて衣装のシルエットが変わって、背中の蓮みたいなトケイソウみたいな柄が広がるのが本当に美しい。
わたし、末原作品のネーミングけっこう好き。
演者の捩りであることも多いけれど、そうではなくて物語の構成要素として説明を含むネーミング。
伊藤裕一作品についても似たようなことを書いた記憶がある。
とにかく、そのように在れという作家の意思を享けてそのように在る作品の住人をいじらしく思う、という話。
『悪口屋』の主人公は阿玉 悪太郎……笑っちゃうじゃん、こんなの。
と思っていたら針雑 権、根暗井 氷上、宇加津 有加里と畳みかけてくる。サイコー。
あと汚職の話をされていた政治家が木与和 成行なあたり、狡い意地悪者ではなく流されて抗えなかったタイプだと思われるのも皮肉。そいつも"悪い奴"になるんだね。なるね。
そしてこのコミカルなネーミングに負けず劣らずキャラクタ達の濃厚な個性よ。
権は自他ともに認めるプロの毒舌であるし、それに乗っかる悪太郎の軽薄で実を感じさせない話しっぷり。税の話だって、悪太郎は最初のうち何のことか察せていないのに、権に「護岸工事の」と補足されてから急に隣町の悪口を始めるんだもの。
有加里が「素行悪い癖にアタマいいアピールですかぁ」と悪太郎をからかうシーンがあったから、おそらく悪太郎は仲間内でそういう、不良の中では賢いこと言うポジションだったのだろう。
けして賢い人間ではないように思うけれど、権に上手く乗っかってみせたり、早々に店を出ようとしたあたり、嗅覚は優れているタイプに見えた。
自分の頭で考えるというよりも、いま乗っておくべき流れ、いま避けておくべき渦、みたいなものに対する瞬間瞬間の判断で生き延びるタイプ。
いわゆる不良グループにおいて、それはとても重要なスキルだと思う。
有加里が悪太郎に憧れるのもよく分かる。分かってしまう。
一方で氷上はさ~~~~~…………!
いやもう感情としてはマジでイラッときてしまうのよ。
ムッッッッッカつくのよ。
ねちっこくて嫌味ったらしくて鬱陶しくて陰気でひねくれていて。
ヤな奴、ではあるのよ。……悪口、言っちゃった。
ただ、主張はおかしくないんだよね。(主張がおかしくないからなお腹立つんだけど!!!!!)
お店で煩くしてはいけません、ってのは確かにその通り。
売り言葉に買い言葉な感じでヒートアップしてからも、氷上は「僕は"こういう奴"が一番嫌い」と括って非難するばかりで、悪太郎個人を攻撃はしていない。悪太郎個人への害意があらわになるのは届かなかったパンチ(?)くらいだ。”本来は動ける人が演る、運動が苦手な人の動き”に笑っちゃった。
殺陣さえできる人間によって繰り出されるへなちょこもやし拳、正直めちゃくちゃ面白いもの。
荒れる客たちを前にあわ……あわ……としている権もよかった。かわいい。罵詈雑言を吐くプロではあっても罵詈雑言を止めるプロではないらしい。
悪太郎が退出させられてからその場を取り繕うように笑うのだって、良くも悪くも"普通の人"って感じがして、特別な悪人ではないのだろうなという印象。
マダトコ・トダーマは言霊の捩りであるとして、重ねてdharmaを連想するのはちょっと穿ちすぎかしら。いってmurderくらい?
蛇男というのは二枚舌ということかな。
それか、甘言を弄するものの象徴でもあるか。人類を罪に導くもの。
わたしは自分の蛇舌(わたしはスプリットタンだ)を指して「二枚舌だから地獄で抜かれてもまだ喋れるよ」なんて冗談をよく言う。蛇男たちもそうなんじゃないか。
悪口を言っているのが顧客(とオプションを承けたプロ)であるなら、反動もそちらに向くのだろう。蛇男たちは丸儲けかな。人を呪わば穴二つ、とは言うけれど、その穴に対処できるなら困らないもんな。かっしこーい。こわ。
嬉々として興じておきながら、地下を見たらやめておけと言いだす悪太郎の小物感も嫌と言えば嫌なのだが
終始きょとんとしていた有加里もまた嫌だ。
これは自己嫌悪に似た嫌さだな。
次の奇譚が「バカは死んでも治らない」で始まるのもめちゃ怖い。
救いは無いんですか。
もひとつ他の奇譚と絡めると
1人ぼっちでも遊べると誘う悪口屋がオプションに悪口仲間を提供するって、1人でノートと過ごした幸福な少年を思うと対比がえぐい。
んべっ!と元気いっぱいに舌を出す有加里
べろんと長く舌を見せつけるような権
この2人だけであれば悪口屋のお決まりのモーション(某居酒屋チェーンの「よろこんで!」みたいなアレ)かなとも思えたのだけれど
ラスト暗転する直前に氷上の口からも毒の舌が覗くのよね。
そっと、人目を憚るように、それでも確かに舌を出していた。
氷上の卑屈さというか、狡さというか、我が身可愛さとそれでも悪意を悪意としてアウトプットせずにはいられない"毒"が可視化されているようでゾワッとする。
あと悪太郎、これも他人の真似をした後出しだったね。
黄色い扉向こうのソウスケ
大学生くらいの年齢特有の、友達同士の雑~な絡み、好き。
もう最初の「おーい」「おう!」のテンションでそれが分かる。
わちゃわちゃして、小気味よく弾むように、そのポップな雰囲気で目くらまししながら
えげつない話を広げていくなぁ!???!???!?
ある意味『悪口屋』よりもタチ悪いでしょこれ。
ダーク末原拓馬、だーいすき。うふふ。
あと地味に好きポイントとして
脚本上の「悪夢を見そうだな」が舞台上で「いい夢見そうだな」になっていたこと。
ケンの「お前のこと親友だと思ってたけど最悪だなあ!!!!!!!」に対する共感が止まらん。
嫌すぎる。嫌すぎるよぉ。
最初に「そのぉ……ちょっと…………嫌な夢を見る」で誤魔化して「最悪死ぬ」まで伝えずに話そうとしてるのも最of悪で嫌すぎる。
ところでチェーンメールって今もあんの?
冒頭の三上さんによる導入(古畑任三郎っぽくなかった?)からして不穏な、まぁ分かり切ったバッドエンドなわけで
安心して不安になれる物語だ。
怖がるぞ~、と承知の上で怖がれる、これは本当に助かる。
現実の恐怖体験は嫌でもお化け屋敷は楽しめる、的な。
ババアおばあさまの回替わり演出は笑ったり戸惑ったり。
シンプルに愉快なものもあったし、回によってはちょっとハラハラする表現もあった。
ただずっと橋本さんが楽しそうで、そこに釣られてにこにこしました。
終始かわいらしい、なんなら少女的にさえ見えるオイボレおばあさまだった。
橋本さんの中の"老婆"観がキュートなのかな。
虹色の草原を走るシーン、バンドのフリをみんなでするところで
前川さんドラムス
としもりさんウッドベース(レフティだ!)
三上さんギター(たぶんエレキ)
っぽかったのも好き。なんかこう……分かる。 何が? 何かが。
拓馬さんはタンバリンかしら? 何かしらのパーカッションっぽく見えたが自信がない。仮にカスタネットだった日にはオタクのメンタルが爆発四散しかねないのでタンバリンであってくれ。
25時
これはね、なんというか。
ストーリーとしてはよく分かる、王道のものだと思う。ぶっちゃけ展開が読める。でも展開が読めたところで物語の魅力が失われるわけではない。
変に振り回されないからこそ、前川さんの演技を心置きなく味わえた。
俳優・前川優希というひとを、わたしは今作で初めて知ったのだけれども。
(実は『どうな・る家康』を観ていたのだが、そのときに前川さんを前川さんだと意識していなかった。帰ってから調べるまで完全に初見だと思っていた……)
いやほんとすごいね。びっくりしちゃった。
前川さんの身のこなしが持つ、あの"正解"感ってなんなんだろう。これがあるべき姿ですと正しく示されている気持ちになる。説得力ってやつ?
よいものをみた……
前川さんの言葉の置き方は、間違いなく初めて味わうもの(『る祭』の司会は計上されないでしょ流石に!)なのに
どこか安心する、懐かしいような感覚があって。
観劇中はその正体が分からないまま、魅力的な俳優さんを知ることができたなぁ、とだけ感じていたのだが
2日目を観たあと思い当たって、3日目に納得した。
熱くて力強くて、同時に凪いでいる空気
そういうものに衝撃を受けて、わたしは演劇を好きになったんだった。
16年と少し昔に、初めて板の上のとしもりさんを見たときの記憶だ。
演技プランが似ているのではない、たぶん。
容姿は似ていない、これは確実に。
どんな表現が相応しいかに自信を持てないながら言語化を試みれば、
おそらく物凄く努力されて在る方なのだろう、という
翻って自己嫌悪にさえなりそうなストイックさを見たのだと思う。
わたしの至らなさはわたしの責であることを認めなきゃならなくなる、頑張りによって美しくあるひと。
わたしがとしもりさんのお芝居にもらったものとよく似た何かを
前川さんによって得たひともいるのだろうな。
……とかなんとか考えていたから
その後にパンフレットのキャスト間コメントを読んで笑ってしまった。
闘鶏乱舞
正直タイトルオチかと思ってました。
だって思うじゃん。思うよね???
『黄色い扉向こうのソウスケ』が、「俺ってばバッドエンドなんです!」と名乗りを挙げて近づいてくれる奇譚だとして、
『闘鶏乱舞』は、へらへらにこにこ笑顔でやってきて突然ローキック入れてくる奇譚なんじゃないか。
こいつを"奇譚"ではなく、自力で生き残れるように鍛え上げたら『パダラマ・ジュグラマ』に似ていくのだろう。
ニワトリの話であるという表面的な部分ではなく
出来事としては同じでも、そこに至る精神よ高潔であれという祈り。
「夢を見た!」の宣言。
やられた、と思ったのはラストシーンの大きな音。
初回は象徴としての、音そのものには具体性のない音だと流していた。
次に観たとき、「あっ、これ、よーいどん、のやつか」と思って
その直後に気付いた。空砲じゃない。銃声じゃん。
わたしの察しが悪いということはまぁ申し開きの余地なくそうなのだけれども、あんなに楽しそうに広げた末に至る場所として、急には追い付けないよ。
たとえば『パダラマ・ジュグラマ』くらい重く冷たくレールが敷かれていれば、そのクライマックスのあとに何があるか想像せずにはいられないとして、
『闘鶏乱舞』ではずいぶん急に投げつけてきやがる。そういうとこだぞ奇譚庫!
それもまた魅力なわけだけれども。
殺陣(殺陣!?)のところで5羽の個性がちょっとずつ見えるの面白かったな。
あまり羽ばたかず、足を動かす橋本さん軍鶏。ハイキックのような脚上げ、思わず二度見した。元気いっぱい、少年まんがの主人公みたいな印象。
足技の橋本さん軍鶏に対して、つっつき攻撃主体っぽい拓馬さん軍鶏。首の動きが怖い。鳥の鳥らしいところだ……。
時々ライオン?トラ?っぽい、ガオー!という威嚇をする前川さん軍鶏。その手はどこの何? やや鈍足めのパワータイプっぽい。
常に手が"翼"になっているとしもりさん軍鶏。優勝候補のわりに強そうでもない。よくきょろきょろしていて、乱戦を避け勝てる相手に挑んでる感。
一撃の重さより手数で勝負って様子の三上さん軍鶏。モンハンで言う双剣、スプラで言うマニューバって感じの軽さと速さ。これ伝わるか?
独白集
◆アクリル絵の具の夢
画家の先生は生きていて、今まさに絵を描いているのに
もしもの想像でここまで情念を込めて語りだす絵具。
俗っぽい言い方に丸めてしまえばヤンデレってやつになるのだろうが。
「先生、僕そんなにふしだらじゃないよ」
色々な味がしたな……。
初回は甘える駄々っ子じみて「ねぇせんせ?」
2日目は拗ねて半ば怒った「先生、」
3日目は諦めつつ溢れるような「……ね、」
4日目は縋り付く?突き付ける?熱量でもって「先生。」
特に最終回の「ねえ」の執念は怖いくらいだった。
個人的には初日の、妖しさを含みながらも甘えん坊らしい「ねぇせんせ、ぼくそんなにふしだらじゃないよ」の空気感が好きだったな。
そのあとの「ぼくの絵を描いて!」以降どんどん執着があらわになっていくまでの助走として。少し舌足らずな、お菓子みたいに甘ったるい声色の「ねぇせんせ」。
とはいえ早めにアクセル吹かして押せ押せなパターンの凄みも嫌いじゃない。ビビるけど!
◆猫の死に際
しなやかな猫の「てくてくと、てくてくと」がどこまで現実だったのかを考えている。
本当に逃げ出したのかな。その猫に見えているものと、猫の飼い主が見えているものが全く同じだとは言い切れない気がしている。
友人宅の、最期ほとんど呆けて仔犬のように逝った老犬が脳裏に鮮やかであるせいだ、おそらく。
初日「こういう風なお芝居をされる方なんだー」
2日目「昨日より演出色が強くなっていらした……!」
3日目「あれ若干戻っていらっしゃる????」
4日目はどちらも考えさせない、猫の物語だと思った。
とくに2日目夜の回なんて、ここに末原拓馬がいる!!!となった。自我ってあんなふうに出し入れできるんだ……。
◆マニキュア
小刻みなリフレインが、小さな爪の集まりらしくて好き。
「なるべく指先にいたいな」「いたいな」「いたいな」
「この毎日」「この毎日」「この毎日」「この毎日」
「除光液を買いに行こう?」「除光液を買いに行こう?」
わたしの気のせいかもしれないけれど、日に日に必死な、悲壮な様子になっていた気がする。
三上さんの、年齢も性別も特定させないような言葉の響かせ方は職人技だ。現代日本ではちょっと女性っぽい、ちょっと大人っぽいイメージが付随するマニキュアに対して、こういう人格の与え方をするのだなという新鮮さがあった。敢えて男性らしくするわけではなく、敢えて女性らしくするわけでもなく。
◆ルームシューズ
「ふかふかのるーむしゅーず」の第一声、ふかふかのルームシューズでしかない。すごい。ふかふかのルームシューズだ!
ひらがなだった。ひらがなで「ふかふか」だった。
独白集のなかでは身振りが多い方であったように思う。それが幼さの記号として機能していた。
口調は子供っぽく、表情もころころ変えながら、でもルームシューズは感情そのものを言葉にすることがなかったのが印象的だった。悲しいとか、寂しいとか。
ほとんど叙事。それで観客の心をざわつかせるのだから、すごいことだ。
◆グラス
泣かずにいられた回がなかった。視界が滲むのが惜しくて、何度も瞬きして水気を払った。
量産品のグラス。ありふれたグラス。
本人(本杯?)も「安くで売られていた僕はグラス だけれどもどんな高い飲み物でも入れられる」「麦茶を飲んでもいいし、ウイスキーを飲んでもいいし、日本酒を飲んでもいいし、青汁だって飲んでもいいよ」と言う。
つまり沢山の人にとってちょうどいい、汎用としての存在であるはずだ。
それはわたしの憧れそのものだ。普通って、すごいことだもの。普く通るって、物凄く素敵な美徳だよ。
わたし、普通になりたいって毎日思ってる。そうじゃなきゃ薬価のやたら高い、副作用だって楽じゃないコンサータを毎日服用する理由が無い。
あの眩しい遠い届かない"普通"の、日常そのものであるようなグラスが
「いつの間にかいなくなったりはしないよ」
「どうかどうか今のことを覚えていて」
「分かってる。でも、どうか、どうか」
と穏やかに、優しく、あたたかな声色で語りかける様の尊さが堪らない。
それ欲しかったなぁ。わたしには永遠にかなわなかった愛の形だ。永遠にかなわないんだから、欲しいと思いたくなかったなぁ。あーあ!
◆ボールペン
"末路哀れは覚悟の前"か。
絵具と対照的に、ボールペンは書き手への願望を口にしないから。
本当にそれでいいと思っていたのかは分からない。自らに言い聞かせている節があるようにも聞こえた。まぁそれにしたって目指すところではあるのだろう。
「バイバイ、バイバイ」の繰り返しがまさに"末路哀れは覚悟の前"のあらわれに思えた。
覚悟と同時に哀れだと感じる心は残している。
いいね。
かっこいい。
ところでこういう、がらっぱちで男性的な語り口の拓馬さんを見るにつけ
拓馬さんの中におぼんろがあるなぁって思う。
◆お香
一等共感した独白はこのお香の物語であった。共感という言葉選びが最適解だとは信じがたいのだが、他にいい案が思いつかなかったので共感とする。
つい想像力をサボらせて、自分に引き寄せて考えてしまう、って感じ。
知ったこっちゃないや!ってわたしもしょっちゅう言ってしまうから。
だって知ったこっちゃないしなぁ。
いいんだいいんだ。
そんで相手からも「いいんだいいんだ」って思ってくれたら、なるほどちょっと、嬉しいかも。まぁ知ったこっちゃないんだけどさ。
◆ハサミ~ドライヤー
ハサミ。寓話的な擬人化と、湿気で錆びる物質としての姿の共存が好き。
ビデオカメラ。悲しんだことを忘れるとして、そのとき悲しんだことはなくならないはずだ。悲しい事実としても。嬉しい事実としても。
ヘッドフォン。聞かせるためのモノだったそれが力を失ってなお願うのが聞かせないことだっていうドラマ。あんまりに綺麗だ。
ウイスキー。このコがさっきのグラスに注がれていたら、"君"はグラスの声を聞けたのだろうか。無理か。
金魚。たぶんきっと拓馬さんの中にはまだ続きの奇譚が眠っていて、今はこちらに届いてないだけなんじゃないか、と思った。
薬の空き瓶。好きだな、そういう循環。なーんにもならない螺旋みたいな、そういう、でもそこに在れという奇譚。
ドライヤー。ドライヤーのコードを剥いた日を思い出した。これでおしまいに、って止まりかけたのを辞めたのこそ物語に出会えたからだったな。
プロローグ
前もって”黄色ってのは狂気のメタファー”のくだりをやっておいて、
少年とノートのシーンで黄色い光で空を裂くの、ほんとに、ほんとに、
ほんとにさぁ…………!
狂気ではあるとして、それはこう……なんか……一般に"狂気"という言葉で語られる荒々しいものではなくて。
孤独な少年が狂った先に求めたノートの人格(帳格?)が、友とも親とも弟妹とも例えきれない塩梅なのがたまらない。
近い年頃らしい仲間ではなくて、かと言って慈愛に終始せず軽口を叩く性格で、また少年がノートを寒さから守ろうとするシーンまであって。
少年とノートの物語は美しいと思う。優しいと思う。愛おしい。大切にしたい。
しかし同時に、100点はなまる1等賞の金メダルが似合う話でもないと思う。独立して世界中から愛される普遍的なストーリー、ではない。
奇譚、なのである。
ひとりでは生き残れない、と思う。
この『末原拓馬奇譚庫』にあっても、"他の奇譚に触れる彼自身"という彼の物語を補助的に使って、やっとなんとか作品のテイをとったのがノートの物語だ。
ノートに綴られた具体的なお話は、その一言一句がわたしたちに聞かされたわけではない。
「この世界の何処かには物語を集めた場所があって……」という奇譚庫の物語こそ少年にノートが語った物語だとして
我々が観たのは5人の肉体を得た、舞台上で展開するそれでしかないから、ノートが語ったそのものは、やっぱり少年しか知らない。
奇譚庫に収蔵されるのは"発狂した物語の物語"であって、"ノートと少年の間にあった優しい物語"は失われたということなのだ、ってのがわたしの認識。
悲劇かと問われたら頷けない。
失われることが悲しいことだと直接結ぶのは、ちょっと乱暴にすぎるように感じられてならない。
もちろん悲しくない!寂しくない!とも全く言えないが。
敢えて作中から言い回しを呼んでくれば、
それもまたいいよね。小気味がいいよね。悪くは、無い。
ってやつになるのかな。
バイバイ、バイバイ!
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