脳内劇場は常に明転
古池や蛙飛び込む水の音
景色が「浮かんだ」でしょうか。
浮かんだ方、それはどんな光景でしたか。
和風の庭園でしょうか。森の奥の深い湧水でしょうか。寂れた里山の涸れかけた溜池でしょうか。
なんにせよ、すごいね!
わたしは文章を読むとき、文章で読んでいる。
文章を書くとき、文章で書いている。
……どういうこと?ってなった?
たとえば、このテキストを入力した今だったら
(自分ってどんな風に思考しているかしら。ちょっと想像してみよう。えーと、まとまったセンテンスを書くときは……)ではなく
(平仮名で わ た し は 、漢字で 文 章 、平仮名で を 漢字で 読 、平仮名で む と き 、半角の読点、漢字で 文 章 ……)というような感じ。
読むときもおおむね同じ。
ゆえに(わたしとしては当然ながら)、
と
は別です。だって字が違うもの。もちろん違うように読みます。
情景を想像できないわけではありません。
「ふわふわのポメラニアン」を「 ふ わ ふ わ の ポ メ ラ ニ ア ン 」と認識しているからと言って、ふわふわのポメラニアンが思い浮かべられないなんてことはない。かわいい!
ただ、それはあくまで「文章から想像する」という別の行動であって「文章を読む」という行為ではないでしょ、という話。
「目に浮かぶ」ものを「読む」人もいる(らしい)
絵(や動画)として想像できない文章は読むことが大変だ、という苦労を聞いたことがある。
たとえば夫はファンタジーの類を活字で楽しもうとすると疲れるらしい。
…………なるほど?
彼は「好きな小説の、好きな表現」という言葉選びをしない。
「好きな場面」「好きなセリフ」といったような言い方が多いように思う。
それでかぁ、という納得がある。
つまり、
文字を読み内容を理解する→シーンを思い浮かべ脳内劇場で上映する→上映された仮想映画(あるいは舞台?)を鑑賞する
という手順があるわけで、「文章表現」そのままを受け取っているのではないらしい。
そりゃセリフばかり印象に残るのも道理である。
わたしが
で、「こんこん」「ちらり」が平仮名なの、柔らかくていいなぁ!
だとか
の、「渠」という字を「かれ」や「あいつ」に使うの美しいなぁ……♡
だとか
そういった喜びを語っても共感を得られないってわけ。
面白い。
やっていることはまるで違うのに、我々の行為は「本を読む」に丸められる。
どちらが優れているということでもないと思うけれど、
まだ知らない読書体験の可能性として、夫(たち)の読み方に憧れがある。
余談
わたしはTRPGが好きだ。
旧知の友人とも遊ぶし、その場限りの野良セッションでも遊ぶ。
主にCoCだけれど、その他のシステムもいくつか。
虚構侵蝕TRPGとか世界設定からしてわくわくするよね。
最近はオンラインセッションがほとんどだから、遊んでいるわたしは夫から見えることもある。
何度か誘ったものの、彼は「僕には無理だなー」と返された。
お芝居するのが恥ずかしい、と言う。
いや、お芝居だけがロールプレイじゃないんだって!と説明したのだが
あまりピンと来ていないようだった。
たとえば荒くれ者のキャラクタでプレイするときだって
「てめえ! この××野郎、××を××しねえと××だぞ」
というセリフを感情をこめて言わねばならないなんて決まりはない。
「ぼくのキャラクタは情報を聞き出そうとします。脅迫じみた乱暴な口調です」
とゲームマスター(だとかキーパーだとかディーラーだとか。要は「司会」のようなことをする役の人)に告げればいいだけだ。ト書きを読む、と表現してもいいだろう。
それでも「演技はしないとだめじゃない?」と今一つ納得できなそうなのは、彼の中でト書きが脳内劇場で上映されない部分だからではなかろうか。
他のTRPG好きな方々の読書スタイルも聞いてみたいな。
見返りはないよ。ただあなたが優しいだけ。