Shining, shimmering, splendid
好きな俳優(現在の話として「俳優」と呼べる喜び!)が出演する舞台を観ました日記。
これからまた観る予定です日記。
読まれるつもりのない、手すさびです。
前にも書いたし、あとにも書くでしょう。
読まれるためにでなく書くために書いているから
きっとひどく不親切になります。
そのひとを知ったのはちょっと昔で、
わたしは高校生で、12月の放課後でした。
それまでに知っているすべてを凌駕して
きれいなひとだ!と驚いた日です。
身体の美醜の話ではありません。いや、そういう文脈においても「きれい」なひとであったと思うけれど。驚きの焦点はそこではなくて。
十代のわたしがそれまで「好ましいもの」として触れる機会が多かった存在は強いエネルギーをはじけさせるようなものが多く
わたし(たち)が「好ましい」と評価されるときも一所懸命さを一所懸命さとして隠さず、必死で、パワフルで、一瞬にすべてを放出するような力の使い方がほとんどでした。
(ティーンエイジャーがティーンエイジャーの何を喜ばれるか、今になって思えばある程度は想像できるけれど、渦中にあっては自覚が難しい部分もあるわよね)
誘われて行った舞台で、目の前で展開されたいろいろな肉体の動きの多くは
わたしにとって馴染みやすい「美しさ」を持っていると感じました。
だからそこに、興奮はあっても驚きは無くて。ストレートに格好いいと思うだけです。
今この一瞬だけの、二度とない、きらきらした偶然の提供。
たとえば「舞台はナマモノ」と謳うような人々が愛するのはこういう奔流かしら、と思います。
そのひとは凪いで見えました。
エネルギーを外に弾けさせるのではなくて、渦巻いたそれを内側へ向けて集中させているように見えました。
ほとんど完全に統制された流れの、充分にコントロールされた部分を、必要性が見出された量だけ、照明の下に出したのだと見えました。
たかだか十数年ぽっちの人生で何を語るかと滑稽ながら、それは確かに「生まれてから今まで見た中で、一等きれいなもの」でした。
たとえば今ここでお芝居が止まったとして「4行前のセリフからもう一度」と指示されたなら、そっくりの立ち居振る舞いを再演できるのだろうと思いました。
限りなくリピートで、(もちろん生体のすることですから抗えない揺らぎはあるものとして、)"同じ"チケットを買った観客に"同じ"お芝居が提供されることを
わたしは誠実として受け取りました。
誤解があっては残念なので但し書きをしておきますと
荒れ狂う感情の波をあびせにかかるようなお芝居を劣っているとは考えていません。それはそういうもの、としてあるのでしょう。
あくまで2008年のわたしのための大きな存在ではなかったというだけです。
望まれた物事を望まれたように出す、という括りであれば
「舞台の上で都度ランダムに爆発する」という行為もある種の誠実性でありえるはずです。
ただわたしは
枯れない、褪色こそすれ生花が枯れるよりずっと長くを鮮やかにある造花を愛おしいと思います。
人によって作られた偽りの花は、美しく美しくと願われて美しくあるわけであって
そこに生態として綺麗な"本物"とは別種の高潔さを見ます。
噴水が綺麗であることと滝が綺麗であることがお互いを侵さないようなものです。
スノードームと雪景色は損ね合いません。
欺瞞だとして、虚偽だとして、瞞着だとして、そうであればこそ可愛いのです。その欺瞞、虚偽、瞞着を、"ほんとうに"清らかな尊きものであると考えるのです。
きれいなひととしてお芝居をするのは
都合がいいように真実を歪めることではないでしょう。
むしろ正対することがどれほど辛い困難であっても、そのすべてを憚らず直視することによって成立する嘘でしょう。
「好きでいたいから、つとめて愛する」なんてこと、わたしにはきっとできません。
感電するみたいに、凝華するみたいに、閃くみたいに大好きになりました。
そんなわたしだから、あこがれも相まって、その燃え上がる静謐に惚れ惚れしているわけですし。
好意や憧憬や感謝を、「いつか裏切ってしまう日が来るかもしれないけれど、そのときまで」と言い添えた上で聞いてくれたそのひとが永遠だとか絶対だとかではなく今日のわたしに、今日のそのひととして応えてくれた正直さと丁寧さが宝物です。
ありがとうございますが言えて
だいすきですが言えて
その上で、おつかれさまでしたまで伝えさせてくれるのは、まさに至れり尽くせりと呼んで差し支えないはずでした。
さようならが機能する縁なんて、きっと飽きる間もなく数え終わる量しかないでしょう。
わたしは、退団の報を喜びました。
「あのきれいなお兄さん」の続きだと再認識して、嘘偽りなく喜びました。
ありがとうございました、って、過去形で挨拶できるなんて僥倖に違いないのです。
美しいお芝居のみならず、美しい俳優でもあったのだと幸福を反芻しました。
さみしいことと嬉しいことは別個です。
さみしいに決まってるじゃんね。
大好きだもの。
ずっと、ずーっと、かならず、やくそく、またねって言えたらそれはきっと嬉しいですよ。幸福に安堵するでしょうよ。
夢に見た日、そのひとが偶然にも寝坊していて、それだけで指先が冷えるまで緊張するわたしです。
万に一つそんなことがあれば、間違いなく杖になるだろう、と確信しています。
そんで杖としてあろうが、たぶん、大好きでいてしまうのだろうな。恥ずかしくも誇らしくも。
わたしが求めるものがあるとすれば金棒であって、杖ではないのですけれども。
そして、きれいで素敵なそのひとは、わたしの杖になってくれないのでした。やさしい!
台詞だって分かってても、「いつの間にか消えたりはしないよ」とそのひとの声で聞こえるのは、
奥歯のまわりが軋むような、心臓のそばで管が絞られるような、土踏まずが小さく泡立つような、すべての爪が氷に置き換わったような、眩しい心持ちになります。なりました。なります。