万事に通ずるもの、それは余裕なり
昨日Twitterで「 #先生死ぬかも 」というハッシュタグがトレンドに入っていたのでこの際にこれまでの自分ことを一度整理しておこうと思います。
現在私は教職を履修しているのですが「教職をとっているくせに教師になる決意や覚悟はないのか?」と言われたら私は言い返せません。「今現時点で覚悟など全くできていません。」これだけは、はっきりと言えます。
教師になりたいと思った経緯や教育、学びに関することならいくらでも語れます。学ぶことが好き。教育が好き。より良い教育をより多くの人に届けたい。知の創造(去年ふと思い浮かんだ言葉です。なかなか素敵じゃないですか?)に全身全霊をかけています。未来を担う子どもたちを始め、生涯学習をする大人の教育のためにも、教育に携わる仕事をして生涯を全うできたらもうそれで十分です。多くは望みません。教育人として終えられたらそれで良い。
教師になるのを渋っている理由は一つ、労働環境が悪いから。それだけです。ブラックですよね、教師って。特に高校生のときに強く感じました。私の恩師は朝6時30分から夜20時まで学校にいました。
それとこの前先輩(英語の教員免許取得済)からいろいろ話を聞きました。先輩は現在公務員として働いていますが、公務員は残業代が出るけれど教師は出ないと言っていました。やっぱりブラックだなぁ、、自己犠牲のライフスタイルは絶対にしない、これだけは譲れないところだから悩みます。
ブラックなのは誰でも嫌ですが、私がブラックが嫌なのは「余裕」なくなってしまうからです。余裕がない状況では研究も生徒と向き合うことも何もできないと思います。それらをするふりはできるけれど、本質的に出来ているとは私は思わない。私は余裕はとても大切な概念だと考えています。
ここから持論の展開になってしまうのですが、他人を満たすためにはまずは自分を満たす必要があると思います。自分が満たされているからこそ他人を満たすことができる、自分を満たせていないのに他人を満たすことはできない。
では自分が満たされていると何をもって言えるのか、それこそ余裕だと私は考えます。
経済的余裕があるから募金や支援をすることができる。精神的余裕があるから気配りや柔軟な態度をとることができる。身体的余裕があるから行動や活動をすることができる。
もし私が家族や友達、財産も失い、愛することも愛されることもなく、明日を生きる希望を持てていなかったら、何か社会のために、他人のために還元しろと言われても何もできないと思います。また目の前に自分の好きなケーキがあって、それを誰かに頂戴と言われたとしたら、ケーキを買える経済的自由、お腹が一杯である身体的状態、不安定でない精神状態があるからこそ一緒に食べることも、ケーキを譲ることもできるんだと思います。
何事においても余裕があるからこそ思考や行為、行動をすることができる。だから教師が日々研鑽に励み生徒に寄り添って共に学び続けるには、劣悪な労働環境で余裕を奪うことはあってはならないと思います。人間が人間らしく生きる上でも余裕は根源的自由として必要だと思います。
教師と共に歩む時間は人生のスパンで行ったら短いけれど、教育を受ける期間では長い。家族がいる家より教師がいる学校で過ごす時間が長い生徒も存在します。だからこそ教師には生徒に対する責任は重い。いい加減な教育は絶対にできません。生徒の未来を奪えない。奪いたくない。絶対に嫌だ。
そんなわけで私の教師になるかならないのか、そして教育論への挑戦と葛藤は昨日も今日も明後日も続いていきます。もし私が何十年か後にもしこの記録を読み返したとしたらどう思うのか、その時にどうなっているかは分かりませんが、何とかなっているといいなと思います。
ちなみに余裕をもつことに関して、今年の1月にサークルの鍋パーティーでみんなで年始めの目標を立てたんです。そのときの紙がこの前の掃除で発見されたので写真にとってサムネに使ってみました。
大きな抱負・目標には「今を生きる」、そして内面的な具体的な目標には「余裕を持つ」って書いてありました。思考は日々変化して昨日言ったこと、今日言うこと、明日言うであろうことが一致しないことは往々にしてあるのですが、この余裕を持つスタンスは今でも変わっていません。これはこれからも大切にしていくと思います。余裕があるとないとでは見える世界が違うので..