コスプレのモチベーションって何だろう
私はオタクである。そしてコスプレイヤーでもある。だから色々なキャラクターのコスプレをする。とても楽しい趣味の一つだ。
けれど未だによくわかっていないことがある。
コスプレをするモチベーションって、どこからくるのだろう。
改めて考えているのにはわけがある。
私はいま、コスプレの写真集をひとつ、作ろうとしている。
私のnoteをご閲読くださっている方はおそらくニンジャヘッズの方が多いと思うので、先にニンジャセッションの話をしておくと、実はあれは結構例外である。
もちろん、好きなキャラクターだから、というのは大前提である。嫌いなキャラクターに扮しようと思う人間はまずいない。いままでセッションしてきたキャラクター達のことは、みんな大好きだ。
この前提の上で、このニンジャ/非ニンジャのセッションをしよう、と思うのには大きく二つ理由がある。
ひとつは、「好きな服装がしたい」。もう一つが、有り体に言えば「ウケ狙い」、もっと噛み砕くと「このセッションで自分がその場にいることによって、少しでも楽しんでもらえたならいいな」という思いである。
前者の典型例はユンコちゃんだ。私はもともとゴス系の服装が好きなので、ちょっとワードローブをひっくりかえしてみたら、ユンコちゃん風のセットアップがなんとなく完成した。コルセット、スカート、グローブ、ゴーグル、ソックス、ブーツ、全部家にあった。なのでそれにいろいろと買い足して、最終的に私なりのユンコちゃんが完成した。
後者で一番わかりやすいのはネコネコカワイイのカワイイコとコトブキ。HMCで誰かしらがほとんど違法行為をプレイするであろうことを想定していたので、それを踊るネコカワやコトブキがいたらちょっと盛り上がるんではないかな、と思って揃えた。あの振り付けも二時間くらい鏡の前で猛特訓して頭に入れました。必死ですみません。結果として、翻訳チームのお二方にも楽しんでいただけたらしく、とてもありがたい。あと、コラボメガネのフジオ。だれも好きこのんであんなわけわからん服作りません。嘘だよ好きだよ。ちなみに後にも先にも、首から上にあんなに金かかるコスプレはしないと思います。ともかく、フォロワーさんに爆笑していただけたので私の労苦は報われた。
その中間くらいにあるのがディアボリカだ。ゴス系ファッションはフェティッシュ系と通ずるところがあるので、こちらもレザーのショートパンツや網タイツなんかは家にあった。当時TLで一気にディアボリカが盛り上がり、私もとても惹かれたので、これはビジュアルの特異さもあって楽しいだろうと思い、全身タイツやら赤のファンデーションやらを用意して臨んだ。色肌のキャラクターははじめてやったが、こちらも色々な方に楽しんでいただけたかな、と思っている。
ニンジャセッションがいわゆる「ふつう」のコスプレと違うのは、それがコミュニティの中で行われるものであるという前提のところだろう。だいたいのコスプレ撮影というのは、スタジオか屋外ロケかコスプレイベントか、という違いはあるけれども、「被写体」と「撮影者」の一対一(厳密には被写体が複数であることも多いので、多対一ではあるのだが)の関係の中に終始する。被写体は撮られることに徹するし、撮影者は撮ることに徹する。そこに「観る者」は、とりあえずは存在しない。
もちろん、できあがった写真をその後どうするかというのはコスプレイヤー(カメラマン)による。ツイッターにアップロードするのか、あるいはコスプレ系SNSに投稿するのか。あるいは眺めるだけなのか。どういう形で「観る者」の前に提示するかというのは、個々人の裁量による。
私はなぜこのキャラクターのコスプレをするのだろう。好きだから、である。けれどそこに論理的な繋がりはない。
でもそれを言ったら、「好きなキャラクターを描く(書く)」だって非論理的な営みだ。「好きなキャラクターが見たい」はわかる。でも、「好きなキャラクターだから描く(書く)」は、そこに何かしらの飛躍を仮定しないとつながらない。
あるいは、「好きなキャラクターが見たい。見たいから(けど思っているだけでは増えないから)、それを増やすために、自分で描く(書く)」なのかもしれない。もしくは、「好きなキャラクターがこんな風にしているところが見てみたいから、自分で表現する」なのかもしれない。
けれどつまるところ、そこに理屈らしい理屈というのはないだろう。好きなキャラクターを、自分の筆で表現したいなとどうしても思ってしまう、といったところなのだと思う。
コスプレの話に戻ろう。なぜ自分は、このキャラクターのコスプレをするのだろう。
これも色々なスタンスがあって、聞いてみると、「好きなキャラクターと絡みたい。だから、そのキャラクターと関係の深いキャラクターのコスプレをする」という人もいる。なるほど理にかなっている。あるいは、好きなカップリングやシチュエーションがあって、原作にはないあれやそれやを画にしたいから、という人も多いだろう(これはもちろん、先に言った描く/書くとも通ずる)。
それとは別に、「とくに思い入れの深いキャラクターをやりたい」という人もいる。私はこれだ。
コスプレをしない人の気持ちになってみて、まず想像されるのは「なりきり願望」とでもいったものかと思う。好きなキャラクターへの憧憬があって、それになりきることで満足感を得る——でもそれは少し違う。
そうでないのなら、「好きなキャラクターがもっと見たいから、自分でやって、写真に残す」。これはあるだろう。それが自分であれ、曲がりなりにもそのキャラクターがおさまった画像を見るというのはやはり楽しいものだし、そこにカメラマンさんの手腕が加わって素敵な画にできあがっていたらなおさらだ。
でも、それで語り尽くせるのだろうか。
つい一昨日のこと、ある合わせ(キャラクター単体でなく、あるテーマをもって複数キャラクターを集めてする撮影のことをこう呼ぶ)をやってきた。銀魂の、土方十四郎と沖田ミツバの合わせである(ちなみにこの二人組というのが、一つ前のnoteで言っている腐女子EDの、おそらくは発端になっている組み合わせである)。私はミツバのほうをやった。これははっきりと、先述の「好きなカップリングやシチュエーションがあって、原作にはないあれやそれやを画にしたいから」という動機のもとでのものだった。
そりゃあもうめちゃくちゃに楽しかった。楽しすぎて、バーチャルYouTuberの輝夜月ちゃんと平野レミを足して2で割らない、みたいな凄まじい状態になっていた。
ともかくこの二人について語り始めると長く、それこそnote記事がひとつ書けてしまうくらいの熱量があるのだが、それは頑張って抑えておく。
それから一夜明けて考えた後、どうしてもやってみたいことができた。それが冒頭の、「コスプレ写真集を作る」ということだ。被写体が沖田ミツバ、彼女一人の。
コスプレの写真集というものは決して珍しくなく、一番多いのは多分、コスROMというやつだと思う。コミケで言うと三日目に多く頒布される、雑に説明するならグラビアのようなものだ(この言い方でコスロムを出しているコスプレイヤーさんが気分を害されたら大変申し訳ない)。
衣装やロケーションやセットや構図の完成度にこだわり抜いて、視覚的にエンターテイメントとして成立するような、というか、〇〇実在するじゃん!すげえ!の路線を極めようとする写真集もある。
いずれのものについても私は手に取ったことがあまりなく、数冊が家にあるのみなので、彼らの表現についての思い入れといったようなものを、残念ながら理解できているとはいえない。理解できないながら、そこにはひとりの創作者としての、完成度の高いもので人のなんらかの感情を揺さぶりたい、といった情熱のようなものがあるのだと想像している。
私のこの思いが、それに該当するのかどうか。なんとなく、違う気がしている。私は完成するかどうかもわからないそれを、別段誰に見せようとも今の所は思っていない。売り物になるなどとは、もっと思っていない。もちろん、見たい/欲しいという人がいてくださるのなら、それはとても嬉しいことなのだけれど。
ここはちょっと説明しておかないとわからないところなので、沖田ミツバというキャラクターについて少し補足する(昂る感情を頑張って抑えつつ)。銀魂という作品は短〜長編エピソードを重ねながら物語が展開していく漫画で、そのうちの中編に「ミツバ篇」と呼ばれている一エピソードがある。週刊連載にして四話、アニメでは二話の比較的コンパクトな話だ。彼女はメインキャラの一人である沖田総悟の姉で、このエピソードの中にだけ登場する。というのは、彼女は作中で早逝してしまうからだ。彼女が描かれているのは、まだ沖田らが江戸に出る前、故郷の田舎にいるころの回想シーンのなかと、それからしばらくのち、縁談のために江戸に出てきてほどなく病で亡くなってしまうまでの、ほんの短い間だけである。
うまく説明できないのだが、私がやりたいな、と思っているのは、そこに描かれなかった空白の、沖田ミツバというキャラクターが生きている時間を切り取る作業なのだと思う。
それは絵や漫画や小説でもいいのかもしれない。私は絵と漫画はろくに描けないが、小説ならそこそこできる。だから、それでもいいのかもしれない。
でもなんとなく、写真でしかできないことがあると思ったのだ。そこに、質量を持って彼女が存在して、彼女が在る風景があって、彼女の足跡があったことを、写真で表現したいと思ったのだ。思ってしまったのだ。
そのために私はたぶん、カメラの向こう側にいる間だけ、沖田ミツバとして生きることになるのだと思う。語られえなかった彼女の生を生きるということ。それがいま、私がやりたいことなのかもしれない。
なんとなくの計画として、この写真集(仮)を、一年くらいかけて四季折々に撮影していって完成させたいなんて考えている。その一年の間のちょっとずつの時間、私は別の誰かとして生きていくことになるのだ、なんて考えている。
と、重たくも気持ち悪いことを考えてしまっている。
結局のところ、一次創作にせよ二次創作にせよ、作品作りというのは大なり小なり自己満足なのだ。言ってしまえばそれに尽きる。
でもその中に、こういう重たさがあってみてもいいのじゃないか、と、そう思うわけです。