この国で「女性」として生きるということ
私は自認の上では男性でも女性でもないのだが(Xジェンダー、などと呼ばれる)、女物を着ているし、化粧もする。単純に女性向きのファッションの方が可愛くて好きだというのと、あとは体格的にサイズが合うからくらいの理由からである。要するに、男でも女でもないが女装して日々生きていると思ってもらえればいい。
女装して生きるということには、非論理的ではあるが必然的に、「女性」とみなされ、「女性」としての扱いを受けることが付いてくる。まことに不本意ではあるが、仕方なしにそれを甘受して生きているという按配だ。
ほかの文化圏でどうかは知らないが、この国で「女性」として生きるということは、単に2つある(もちろん、本当は2つではない)カテゴリーのうちの片方に分類されるということではない。
「女性」であるということは、恐らくはかならず、「女の子」か「おばさん」、その他……として扱われることをも意味する。
ほかの文化圏で以下同文、この国で「女の子」として生きることのアドバンテージは大きい。何をしてもいたいけで可愛らしく、「女の子」であるだけで価値がある。有り体に言えばちやほやされる。もっと言ってしまえば、「(シスヘテロ)男性」にとって性的な価値が高い。
それが「おばさん」になるとどうか。年齢のことでイジっても構わない。加齢とともに現れる容姿の変化に言及してもお咎めなしだし、未婚ならばそのことにお節介を言っても良い。当人からして、「女の子」と比べたときのディスアドバンテージが大きすぎるのだ。
むろん「女の子」と「おばさん」の閾値がどこにあるかは非常に曖昧だし、個人差もあるだろう。だが29歳の私は確実に「おばさん」である。「おばさん」は、何を言われても笑って流す。なぜなら「おばさん」は、そのように扱っていい存在だからだ。これはこの国に蔓延っている、「空気」と「和」を重んじる風潮のためでもあるかもしれない。
とまれ、この国で「おばさん」として生きるということは、傷つくような言葉を浴びせられても、当然のものとして受け入れるべきというルールを呑む(呑まされる)ことであるように思える。
と書いてみると、「女の子」は尊重されていて、「おばさん」はそうではないから、「おばさん」の地位を上げよ、と叫んでいるように思われるかもしれない。
けれど違う。
「女の子」を「女の子」とみなすこと、正確を期すなら「女の子」とだけみなすことは同時に、当の「女の子」にある人格を軽視しているということをも意味する。「若くみずみずしい女性」であるということ以上の価値を見出すことを放棄している。このことを裏付けるには、「女子高生」という言葉(女子で高校生である各個人ではない)の持つブランド的価値の高さを鑑みるだけでとりあえずは十分だろう。
要するに「女の子」も「おばさん」も、人格が顧みられていないのだ。そしてこのような扱いを、多くの「女性とみなされる者」が受けさせられているのだ。
話はややそれるが、フェミニズムとは、私の考えるところによれば、女性優位や優遇を求めるものでは決してなく、他のマイノリティ(マイノリティとは数の寡多を問題にするものではない)と同様、「人間に本来等しくあるべきだが剥奪されている諸権利を、正しく取り戻す」運動である。
私は女性が女性として生きることに理解は示せど共感はできないし、正当なあり方は境界の解体であろうというジェンダーフリー論者なので、フェミニズムは一時的に手を組む相手にすぎないという立場である。
でもなあ。
「女の子」も「おばさん」も怒っていいよ。そしてこのカテゴライズは不当なものだ。彼女たちはまず人間として、当然受けるべき最低限の敬意を払われるべきだ。当然、当人のコンプレックスを笑いのタネにするなど言語道断である。
と、思わずにはいられないような経験をしてしまいbad極まった連休であった。
この風潮は変わりつつあると思う。だれもが発信者になれるこの時代、女性たちはもはや黙っていない。自分の言葉を持たない女性だって、ワンタップで共感を示しその言説を応援できる環境が整っている。
たとえば就職活動や就業の際に体を傷つけるようなヒールの靴を履かされるのはおかしい、というKuTooムーブメントは記憶に新しいし、それに反応した(のか前から温めていたのかはわからないが)ジョンソンエンドジョンソンが就活中のスニーカー着用okをアピールする広告を、新宿駅にばーんと打ち出したことには感動を覚えた。
でもさ。私が生きている間に全てが変わるとは到底思えない。であればもう逃げるしかない。どの国に移住してやろうか、と考えている今日この頃である。