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逃走するアイデンティティ、フェミニズムを超えて——ブラックメイルド・バイ・ニンジャ

◇ごあいさつ◇
ドーモ、あらためまして歯塚傷子です。三度の飯より孤児が好き。かせいさんの八面六臂のご活躍の裏でニンジャ学会誌の編集などをしており、このまとめによるとどうやら私が言い出しっぺだった様子。普段感想文行為はしていないのですが、この機会にと思って挑戦してみた次第です。よろしくね!

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ニンジャスレイヤーが愛される理由にエピソードの多様性があることは言うまでもないだろう。それは「ニンジャ」という存在を通して、——不遜な言い方を許していただくならば「ニンジャ」の登場を言い訳として——自由にジャンルを横断できるというフットワークの軽さだ。SF、スリラー、ミステリ、プロレタリア文学、アクション、スラップスティックコメディ…「ニンジャスレイヤー」の中で発表されてきた数多くのエピソードのうちには、かならずあなたのお気に入りのジャンルの作品があったはずだ。

中でも私が唸ってしまった作品が二つある。
ひとつは「グッド・タイムズ・アー・ソー・ハード・トゥ・ファインド」。「少女漫画」あるいは「少女文学」の世界を、これほど精緻にトレスすることが英米文学の埒内で(一応そうですよね?)、しかも男性作家によって可能だとは! 冒頭で述べたようなフットワークの軽さを今までも散々ぱら見せつけられてきたものの、これには驚いた。この経験は、私がニンジャスレイヤーという作品に全幅の信頼を置くようになったきっかけと言える。

否、全幅の信頼というわけではないのだった。少々私の個人的な経歴の話をさせていただくと、学生時代にはジェンダー論やカルチュラルスタディーズをかじっていた。その中でフェミニズムにも触れてきた。そういう出自であるので、ニンジャスレイヤーの保っていた(そう、過去形なのだ)あるスタンスにはずっと違和感というか、もっとはっきり言ってしまえば嫌悪感を抱いてすらいた。成人女性の扱いである。

なべてニンジャスレイヤーの作中では、女性たちは美の、あるいは性的魅力の表象として語られる。ユカノ、ナンシー、フェイタル、パープルタコ、レッドハッグ……彼女らはみな美女であり、そのことが登場のたびに強調される。バストのサイズが逐一しつこいほどに描写されるのも、彼女らの性的魅力がキャラクターとしてのアイデンティティ形成に寄与していることの証左だといえよう。
このような、美や性的魅力を女性たちに強制し、「美しくあらねばならない」という強迫観念を女性たちに植え付けるような傾向を、「美があたかも(女性たちにとって)職業資格であるかのように扱われている」として批判したのはアメリカのリベラル・フェミニスト、ナオミ・ウルフであった。ニンジャスレイヤーにおいて一貫している女性に対するまなざしはまさに、彼女が非難するところのこの抑圧と言えよう。
フェミニズムに肩入れする気は毛頭ないのだが(むしろ私はアンチフェミニストなのです)、この封建的なスタンスが、ニンジャスレイヤーという聡明な作品の中でなぜ貫かれているのか疑問でならなかった。もちろん本作は様々な作品のオマージュであり、あるいは我々が生きる現実のパロディである。だからこういった女性観も一種の露悪趣味のようなものであろうとは思っていたが、それでもずっと引っかかっていたのだ。

それを見事に裏切ってくれたのが「ブラックメイルド・バイ・ニンジャ」だった。
「薄汚いマネーに染まった薄汚い血」に彩られたこの見事なノワールでヒロインを演じたのは、豊満なバストを持つ美女ではなかった。「虹彩の無い細く黒い瞳」の、「低く押し殺したデスヴォイス」の持ち主で、まるでいままで描かれてきた女たちの美とは対極をなす彼女——ブラックメイルだったのだ。
舌を巻いたと言わざるを得ない。主人公たるアサノ・ミツイもはじめ女だと見抜けなかったほどの、まるで性を感じさせない彼女が、女性美からかけはなれた容姿の彼女が、ニンジャスレイヤー史上初とも言える本格的なロマンスのファム・ファタルに抜擢されたわけだ。完敗だった。ニンジャスレイヤーにおける「美と女」の描かれ方は、このための布石だったとすら思えた。

…と、思って続きを楽しみに読んでいたのだが、ニンジャスレイヤーの読書体験の面白いところは、「いっぺんに読めない」という点だ。掲載された断片を咀嚼して自分のものにしたと思ったところで続きがやってくる。そしてファーストインプレッションをたやすく塗り替えてくるのだ。つまりここに二度目の裏切りがある。

アサノが惹かれたのは、ヒロインとしての、ひとりの女としてのブラックメイルではなかったのだ。もちろんそこに至る経過には異性愛的な含みがあっただろう。ブラックメイルを「カワイソウ」だとまなざすアサノの心のうちに、一個の男から一個の女に寄せる情念がなかったとまでは言わない。だがこのシーンにあったのは確かに「女でも、男でも、人ですらない」存在の魅惑だ。

アサノを魅了したのはなんだったのか。
わたしはそれを、ニンジャと言う存在の境界性に求められるのでないかと思っている。
ニンジャはそもそも、女でも男でもない、と言ってしまうのは乱暴だろうか。人間の雌雄が繁殖のためにあるのなら、それができないニンジャたちに性は必要だろうか?もちろん彼らは彼らの性的な欲望のために前後をするし、男ニンジャはモータルのオイランを囲う。しかし本質的に、かれらは女でも男でも「ないことができる」。
そしてまた彼らは人でもなく、かといって超越的な存在でもない。ニンジャがいかに人間をはるかにしのぐ能力を持っていると言って、超脱した神のごとき存在であるというにはあまりに<人間的>すぎる。

境界的であること。こう言ってしまうと、あたかも二項対立的なアイデンティティが厳然として存在し、その両者を併せ持っている、あるいはその両者を越境するということを意味しているかのように錯覚されてしまうだろう。
だがこの言葉の意味するところはそうではない。重要なのは「AでもBでもない」というところだ。だから境界的ということは、境界解体的と言い直したほうが正確であろうか。
彼らはあらゆる同定を退ける。何者かに規定されることから逃走する。この逃走線を描くことこそが彼らの力能であり、その線は我々を惹きつける軌跡なのだ。
彼らの「何者でもなさ」は、われわれが住まう世界にあたかも存在するかのように振舞っている様々の定義やカテゴライズを揺るがす。そこに生じるのは安定的なアイデンティティを破壊される恐怖と、分節の境界線が解体され、新たな世界がひらかれるときの高揚と恍惚である。アサノが、そして我々がブラックメイルをはじめとするニンジャたちに見出すのは、この力ではないだろうか。

ブラックメイルド・バイ・ニンジャは、ニンジャスレイヤーという小説群体の新たな可能性を私に見せてくれた。ここまでぐちゃぐちゃと申し述べてきたが、小難しいことを考えなくたって、描写の美しさだけで十二分に名作だ。
私はニンジャスレイヤーを映像作品だと思っているところがある。本エピソードを読むとき脳裏で再生されるのはヌーベルバーグを彷彿とさせる白と黒のざらついたコントラスト、そしてそれと対極的な大都会の風景が織りなす映像美だ。ブラックメイルド・バイ・ニンジャ、これからも私の座右の書になることだろう。
もしよろしければお読みの諸兄諸姉にも読み返していただきたい。


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歯塚傷子
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