大きな物語の終焉、そして転生
※先んじて言っておくと、以下はアルコホリックの戯言であって、なんらの科学的論拠も持たない備忘録の類であるので、そのつもりで。
「ポストモダンの条件」において”大きな物語の終焉”を論じたのはフランスの思想家、リオタールであった。彼が”大きな物語”と言って指したのは科学的言説を正当化する言説であるところの<哲学>であったのだが、このタームはのちに敷衍され、東浩紀のまとめを借用すれば、「(近代国家の)成員をまとめあげるためのさまざまなシステム」であり、それはたとえば「思想的には人間の理性の理念とされ、政治的には国民国家や革命のイデオロギーとして、経済的には生産の優位として現れてきた」「システムの総称」である(東浩紀『動物化するポストモダン』p.44)。
それは具体的に言えばたとえば、「資本主義を推し進めれば人々はより豊かになる」という言説であり、「正義のための戦いは平和をもたらす」という主張であり、フロンティアスピリットが報われるというアメリカンドリームの類型であり……。しかしご存知の通り資本主義の生む富は限界を迎えているし(われわれはバブルの崩壊という現実を味わったし、金融資本主義はリーマンショックというひとつの結末を迎えている)、正義のための戦いであったはずの第二次世界大戦は冷戦という相互の疲弊のもとにようやく一旦の終結を見、しかし世界には依然正義と利権を振りかざす紛争と緊張状態とが跋扈している。世界平和はまだ夢のまた夢だ。
話が飛躍して恐縮だが、ニンジャスレイヤーをこうした「大きな物語の終焉」のアレゴリーとして俯瞰することにしよう。すなわち、「妻子を奪われた男の復讐譚」という一つのサーガが、もはや物語として強度を保ちえないのではないか? という仮説だ。
言い訳がましく根拠を並べ立てるまでもない。ニンジャスレイヤーを特徴付ける要因のひとつはそれが「小説群体」という形態をとっているということである。ニンジャという唯一の結び目を通して、ストーリーは時にロマンスであり、アドベンチャーであり、スリラーであり、ミステリであり、それだけでなく、主人公であるはずのフジキドは主役の座すらも他の者に譲る。復讐という一つの”大きな物語”——読者が共感可能であり、成就可能である正義だと思わしめるだけの一種のイデオロギー——はもはや無効であり、それこそ、分断された小さな物語の集合でしか、『ニンジャスレイヤー』は進行しえなかったとは言えまいか。それはわれわれの現実を確かに反映している。もとより、サイバーパンクというジャンル自体がポストモダンの産物であるとも言える。
だからといって、私はここで、ニンジャスレイヤーが単純にポストモダン的な閉塞感をアイロニカルに描写する小説だ、とだけ主張するつもりはない。
フジキドが第3部で打破したものは何だったか。それは取り急いではアマクダリという組織である。そして、人間がまずもって再生産のための頭数ととらえられ(すなわち交換可能であり)、また他者の視線を内在化した相互監視のなかで半自動的に管理される、ポストモダン的な権力のあり方である。
市民たちは集った。忍殺旗のもとに、あるいは墓碑銘のもとに。おそらくは、無意識にであれ、市民の結託が権力を打倒しうるというイデオロギーを——大きな物語を、その胸に。
リオタールにせよその後の思想家たちにせよ、なにも大きな物語を嘆息しながら語ったのではない。単に、現代における一つの現実として述べたに過ぎない。それでもその終焉が、喪失が、実際の所われわれを路頭に迷わせた。
そのとき、フィクションはその現実に対して何ができるか? アレゴリーとしてその閉塞的な現実をアイロニーとして描くだけなのか? だとすればなぜ、第4部において、分断された小さな物語だったはずのニンジャスレイヤーはひとつのサーガへと収束し、ひと続きの「マスラダの謎の探求」となるに至ったのか?
思うにこの展開こそは、ポスト・ポスト近代への挑戦なのだ。大きな物語はもはや効力を失い、それが素朴に復興することはあり得ないだろう(前述の通り、それが無効である理由は枚挙に遑がない)。だがそれを夢想することはできる。『ニンジャスレイヤー』はもしかすると、その夢想の、危険だが魅力的な力を、それがもたらす希望ある未来を、信じているのではないか? その一つのあらわれが、フジキドが破壊したアマクダリであり、そしてニンジャスレイヤーを継承したマスラダの「物語」ではないのか。
もちろん、先に述べたとおり、この仮説にはなんらの科学的根拠もないし、だからニンジャスレイヤーがより「良い」(あるいは「悪い」)ものになるという話でもない。それでもこう考えさせるだけの力がある——そういう「物語」に出会えたことを、私はただ僥倖に思う。