うつ持ちにとっての「死にたい」ということ
一個前のnoteで本当に死にゆく人のことについて書いた後に非常に不謹慎かつ不穏なんですけど。
ふと仕事中に「死にたい」と思ったので、「死にたい」でググってみたところこんな記事を見つけた(余談だが、「死にたい」でググると検索結果より頭に命の相談ダイヤルの番号が出てきてややウケるのでやってみてください)。
うつの人の“死にたい”は“からあげ食べたい”に近い 感覚のギャップ描いた漫画が「わかる」
SNS発の話ということなのだが、私はその元の漫画の方は恐縮ながら読んでいない。けれどこの記事を読んで私も思った。「わかる」。
私はだいぶ長いこと心療内科にかかっていて、診断書上は「双極性障害」(いわゆる「躁鬱」)ということになっている。双極性、つまり躁状態のこともあるということだが、どちらかというと、というかかなりの割合で抑鬱状態であることのほうが多い。
初めて向精神薬を飲んだときには大層驚いた。なんと夜まで動ける。それまでは日没とともに営業終了になってしまい、家で床と一体化しながらツイッターするくらいの気力しか残らなかったのだ。
なにより、「死にたい」「消えたい」という念慮が一日中浮かばない。これは驚天動地だった。もしかして、「ふつう」の人は1日に15回くらい「死にたい」と思っていないのでは…?と初めて気づいた。
閑話休題。「死にたい」は「からあげ食べたい」に近いという話。先に挙げた漫画の著者のいう通り、「死ぬ」ということは抑鬱状態の人間にとって常に選択肢として、けっこうお手軽な感覚で眼前にあるものだ。電車がホームに入ってくれば今ここから車両に突っ込んだらどうなるのだろうと考え、歩道橋や屋上に登れば今ここから飛び降りたらどうなるのだろうと考える。とんでもないことでもなんでもない。
けれど一つ、個人的な所感として付け加えておきたいことがある。
それは、「死にたい」ということは必ずしも「絶命したい」ということを意味しないということだ。
「チーズ蒸しパンになりたい」というフレーズがある。とても秀逸な言い回しだと思う。出典は銀魂の作者である空知英秋がいつかのカバー折り返しに書いていたものだ。どんな文脈だったかは覚えていないのだが。
チーズ蒸しパンになりたいということ。これは噛み砕けば、「社会的動物であることをやめたい」という意味なのではないかと私は思っている。仕事をする。そのために会社に行く。そのために電車に乗る。そのために駅まで行く。外出するために化粧をする。その前にはシャワーを浴びなくてはならない。食器を洗いや洗濯もしないわけにはいかない。朝食を食べなければならないが、そもそも作るか買うかしなくてはならない。その前に布団から出なければならない。起きるためには寝なくてはならない。
それら全てを放り投げてしまいたい。これらは全て、人間が社会的な動物であるが故に要求されるものではないだろうか。
うつの人間はやめたい。これらすべてを。
「死にたい」という一言には、そういう意味が込められているのではないかなと思う。私だってできることなら生きていたい(できれば明るく元気で前向きに、良き友人に囲まれて健康に、金に不自由なく生きていきたい)。
でも全部やめたいな、と思ってしまうことが、服薬中の今でも日に一回くらいはあったりする。
だから軽率に「死にたい」と言ったり考えたりしてしまうのだが、本当は死んじゃいたくはないのです。死にたい。