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最近集中して考えていること|人はどうして「いやいややる」から逃れないのか?|逃れるにはどうしたらいいのか?



みなさん、こんにちは!

今日もブログです。

コメント欄が沈黙の行に入っていて、果たしてこの数日書いてきたことはみなさまにご理解いただけたのか、伝わったのか、どうだったかしらと思っていましたら、今朝見てみたら、コメントいただいていました。ありがとうございました! すてきな主旋律! ぜひたのしんでいただけたらと思います。

昨日、自分がもっているメディア、書き出してみて、10年前と比べて窓口がすごく増えているのをあらためて実感しました。もうすこしシェイプアップしてもいいかなとは数か月前から感じていることです。

それこそ、わっちの主旋律は何? ということですよね。

主旋律から外れた時に、やはり、「自分にまとわりつくうろうろしている余分なわたし」が発動し、不用意に反応したり、なにか問題を被ったり、問題に巻き込まれたり、いろいろな「問題」も起こるのかなと。いらない罪悪感や自己卑下をもったりですね。

「うろうろしている余分なわたし」には、先祖やうようよしている霊、想念、エレメンタルなどが、ひっつくんではないかなと、あらためて思っています。おどろおどろしいことばだけれど「憑依」ってすごく日常のなかにあるんだなと。

mmbs通信秋号みてくださったかたはご存知と思いますが! 本当に、あの、怒ったり、泣いたり、わめいたりしている時っていうのは、自分もだけれどそこに乗っかって、感情表現している存在があるんだなあと。先祖の場合も多いようですが、それにしても、皇の時代には、先祖との縁が切れていくとのことでしたので、この500年ほどをかけて、だんだんと、そういった「憑依」的なこともなくなるのかもしれません。

いやね、わっちは、除霊とか浄霊とか、の、手っ取り早い方法は、お風呂に入ることだと思っているんですよ! からだがあたたまるって、特に下半身があたたまるって、自分の周波数がかわるんだとおもうんですね。そうしてかわった周波数に「うろうろちゃん」はいられないわけです。

そうそう、半身浴中に、泣いたり、怒ったり、感情がどばっと出る人もいる。それは離れて行っているということなのかなと理解しています。

もちろん、ケルマデックさんが教えてくださった通り、半身浴は、水のアーシングそのもので、水の力で浄化しているんだなとも思います。


あとは! とにかく、たのしいこと、ここちよいこと、うれしいこと、笑えること、気持ちいいこと、腑に落ちること、およろこびさまなこと、ごきげんになること、夢中になること、っていうのは、周波数がすごくいい感じなんですよね。この時に、「うろうろちゃん」はまとわりつけないんですよね。

ぴかぴかつるつるで、足をかけようにも「すべるーーーー!!!」みたいな感じです。それで退散する。

だからそのためには、半身浴や足湯などのセルフケアと共に、自分が何をしていたらたのしいのか、およろこびさまなのか、ごきげんになれるのかをよくわかっておくことだし、また、同時に、どういうことが無理なのか、いやなのか、ここち悪いのか、苦手なのかわかっておくということもだいじだなとおもうんですよね。

ここがほんとうに微妙で精妙なところで……。わかればわかる!ってなるんですが。


声のメルマガでもお話しましたように、
この黒柳徹子さんがかつてある先生に言われた話がわかりやすいかなと思います。(「やりたいことをやる」について、黒柳徹子さんがわかりやすくお話しされています)


すごくいいお話です。

いやいややらないってことなんですね。

何かをやる時に。


わっちは、子どもの頃、小学3年生の頃に、こうったことにまつわるある体験をしています。
声のメルマガなどでお話したこともあると思うのですが、
忘れもしない、京都の金閣寺を見ていたときにそれは起こりました。

子どもの頃から、体力がなく、ぬぼーーーーーっとした、しかもひとりっこだったヨワヨワなわっちは、友だち家族と旅行していても、なんか、だるいわけです。それでその日も、とぼとぼと、猫背でみんなについて歩き、金閣寺も「ふーん」という感じで見ていたんですよね。

そうしたら母が、「もう少し、こう、何か、感動するとか、ないの!?」って大きな声でいったのです。

で、それを聞いて反発することもなく、「ふーん、やってみっか!」と思って、そのとき、湧き上がる思いを大きな声で口に出していってみたんです。

「わあ!!! 金色、すごい! 金色輝いてる!! きれいだね!!!」と。

嘘をついたわけじゃないし、何か、「やってみた」という感じ。ちょっとしたリクエストに答えてみたって感じですかね。そうしたらね、なんか、そのいったことばにひっついて、こころがぐわわわわわわっと動いたんですよ。からだがあつくなったっていうか。

あのとき何かつかんだんです、わっち。

すごい、周波数が変わったのを感じたっていうか。(そういう言葉では理解してなかったですけれど)

なにかが発動したんです。

「わあ!!! 金色、すごい! 金色輝いてる!! きれいだね!!!」って言ったら、母や母の友人やその子どもたちが「わははははは」って笑ったんですけれど、わっちも「わはははは」って笑えて、何か、金閣寺という存在にコミットしたのです。特にそのお寺が好きとかきらいとか、そういうことではなくて。お寺を感じた。その感じたということに、こころが踊ったのです。


あのときのあの瞬間の体験は、
わっちのなかにずっと生きている感じがあります。


興味がないことは、ないことでいいし、絶対に自分の感情に嘘をつかないってこないだの講義でもそのたいせつさについてお話したんですけれども、むりやりポジティブシンキングするっていうんじゃないんです。

テンションあげあげにするってことでもないんです。

言語化するなら「たのしんでみる」って感じなんですかね。

そのあと空前絶後の小学4年生を迎えるわけですが(スペシャルイヤーでしたわっちにとって)、、またそのお話はどこかで……。今思えば奇跡の小学4年生をすごすことができた前しょう戦として、あのお寺観光体験があったきがします。ちいさなことなのですがね。

実は、ここ数日、どうして人は「いやいややるのか。いやいや続けるのか」って考えてたんですよ。どうして人っていやいや家事をやったり、いやいや子育てしたり、いやいや仕事をしたり、さらにはですよ、



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