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一澤信三郎帆布
11月に入り、烈しい豪雨から一夜明けた連休中日の日曜の日、小生は松阪から名古屋に向かう近鉄急行列車に乗せられていた。
というのも、火曜日には仕事の都合で京都出張が決まっていた。別にこれに合わせて帰省するなどと言うことは当然考えていなかったのであるが、取締役が、「濱田くん、火曜日は伊勢から直接京都に行って良いから、実家に帰ってみてはどうかね」との提案をなされたので、人の言うことを聞くと言うのは甚だ不本意ではあるのだが、ではこの際に帰るとしましょう、と返したものである。
当然、何も用がないのに帰るのも他人に小生自身の舵を握られたようで、これは癪であるため、用事をわざわざ入れ込みたいと思うに至った。丁度、毎週金曜日の夜半に通話をしてはああでもない、こうでもないと凡そ無益な蘊蓄を垂れ流す会の「金曜日会」の構成員であり、某出版社に勤務する某君が、これもまた金曜日会の構成員のであり、ニートを地で征く傍ら名古屋の税理士予備校に通う某君を訪れる事になっていたため、これに便乗した形となる。
松阪から名古屋は乗り換えなしで名古屋に至ることが出来るものの、これは相応の時間がかかり、何より早起きをしなければならないものであるので、少々億劫ではあったが、これも仕様がない。
丁度席が空いたため、左列通路側の席に腰をかける。すると、隣の御老公が持っている鞄が目に入った。
これは、一澤信三郎帆布の鞄ではないか。
小生は喫驚した。
京都以外で、小生が持つもの以外のこの鞄に出会うことは滅多に無いからである。
一澤信三郎帆布とは何か、と言うところであるが、これは京都の東大路通の円山公園に近い辺りに店を構える帆布鞄メーカーである。大変丁寧な縫製と長年に亘り使用できる丈夫な生地、そして創業1905年にも拘らず洒脱で、かつ洒落っ気のあるデザインで有名。
是非普段使い用の鞄を選定する際には選択肢の一つとしてご一考いただきたい品質であり、濱田イチオシの品である。
しかし、鞄を手に入れるには東大路通の本店を訪れるか、オンラインショップでの注文をする他には方法がない。小生も先日大学のソフトボールサークルのOB会に訪れた際に時間を作って現地を訪れ、2時間にも渡る熟考の末、赤ワイン色のキャンバスバッグを購入したのである。基本は綿のキャンバスバッグが主流であるようで、店頭の1階には綿のラインナップが並んでいるが、2階には麻で作られたものも置いてある。人生損をしてでも斜に構えよ、が座右の銘である私は迷わず麻製のものを購入。店番の見目麗しきお姉さんに「それ選ぶなんて、センスがあるね、お兄さん」と言われ、でれでれと鼻下を伸ばしたものである。
隣の御老公が持つそれは、まさに私が予算オーバーで購入を断念した、黒色の帆布に赤いラインを施したビジネスバッグであり、ラインナップの中でも高価なもので、使い込むと次第に手に馴染んでくることが新品の状態からでも容易に想像できる、秀逸な仕上がりのものであった。
購入者の口コミを見ると、こんなものがあった。「自分以外にこの鞄を使っている人が居ると、声を掛けたくなる」とのことである。他人に進んで話しかけることは大変に億劫かつ面倒であるため、小生はそんなことはしないことを決め込んでいるが、しかしその御老公には、「ははん、御尊老、貴方にはセンスがあります」との賞賛を送りたい。
御老公の鞄は既に長年使われたかのような年季が感じられるもので、なかなか渋く成長してきたようである。
「貴殿もこのような齢の取り方が出来ると良い」
小生は、一澤信三郎帆布の赤ワイン色に染まった未だ幼いキャンバスバッグにそう呟き、特急火の鳥を横目に、名古屋駅のホームに降りる。
以上