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【難攻不落の堅城】岡城趾・日本百名城

こんにちは。はったんです。
今回は大分県にある日本100名城の岡城趾についてご紹介いたします。

ちなみに私が岡城趾を訪れた動画もYouTubeに投稿しておりますので、良かったらぜひご覧下さい。

https://youtu.be/HWxF1uW6IEI?si=RBn3McKHLr_RUU3j

〇岡城の概要

岡城は源頼朝に追われた源義経を迎えるため、1185年に豊後武士団棟梁の緒方三郎惟栄によって築城されたと言われています。

城の外観が牛が臥せているように見えることから、
別名「臥牛城」(がぎゅうじょう)とも呼ばれています。

稲葉川、大野川に挟まれた断崖絶壁に築かれた堅城で、大友氏の時代にはその一族である志賀氏が城主を務めていました。

天正14年(1586年)、島津義弘率いる大軍が岡城を攻撃しますが、僅か18歳の志賀親次が奮闘し島津軍を撃退します。
これにより岡城は「難攻不落の城」として世に知られるようになります。

1593年、朝鮮の役で主家の大友家が失脚したため、志賀氏に変わり中川氏が城主を務めることになります。

その後、中川氏は明治4年(1871年)の廃藩置県までの277年間、岡城主を務め続けました。

岡城の特徴として断崖絶壁の上に築かれた高石垣がありますが、これは中川時代の大改修によって築かれたものです。

廃城令により城内の建造物が全て破却されたため現在は石垣しか残っていませんが、奥豊後の山々と天高くそびえる石垣が幻想的な風景をかもし出しています。

天気の良い日には、くじゅう連山や阿蘇山など九州の雄大な山々が一望できます。

〇岡城趾の見所

石垣

岡城の魅力といえばなんと言っても石垣だと思います。
断崖絶壁にそびえ立つ石垣は人間が作ったとは思えないほど壮大でとても美しく、その景色はまさに「天空の城ラピュタ」のようです。

上記でも述べましたが、岡城は中川氏の時代に大改修が行われ、総石垣の城郭へと変貌を遂げました。各曲輪を初め、門跡や櫓台など全て石垣で構築されているのが特徴です。

そんな石垣をふんだんに使用した岡城だからこそ見られる造りをいくつか紹介します。

ひとつは、3の丸にある「横矢掛り」です。

石垣が屏風のようにジグザグの形をした造りとなっており、2方向から矢を放つことができました。敵の迎撃に有効な造りですね。

もう1つはアーチ状の形をした「かまぼこ石」です。

この石は大手門跡に続く大手坂脇にあります。手すりの役割をしていると考えられていますが、製作技法については謎な部分が多いようです。

他の城では見られない特徴の1つですね。

他にも「野面積み」「打込接ぎ」「切込接ぎ」といった技法や、
「乱積み」「布積み」「谷積み」「算木積み」といった石の積み方など、
様々な石垣の造りが堪能できます。

大手門跡・下原門跡・近戸門跡

岡城には西洋の城を彷彿とさせる巨大な門が3つあります。
1つ目は、城の正面玄関口である大手門跡です。

当時は門の上に櫓が渡されており、敵を攻撃できるようになっていました。
また、大手門には侍番も置かれており、城の出入りは厳しく監視されていたようです。

櫓台であった石垣は勿論のこと、礎石や車敷からもとても大きい門であったことが見てとれます。

ちなみに、最初岡城の大手門はもう少し東に位置していたようですが、
城に立ち寄った築城の名手・藤堂高虎の助言により現在の西向きの位置に変わったようです。

2つ目は城の搦手(裏口)に位置する下原(しもばる)門跡です。

中川氏の入部以前は大手門として使用されていたようです。

搦め手ということもあり、岡城東端にひっそりとたたずんでいますが、大手門と見間違うくらい立派な櫓跡が残っています。

また、下原門東の石垣には「千切」という石垣のズレを防ぐための技法が用いられています。

石材にホゾを切り、石をはめ込むという珍しい技法のようです。

3つ目は、通用口として使用された近戸(ちかど)門跡です。

領民や家臣の日常的な出入り口となっていたため、門を出てすぐのところにある「七曲り」という坂道は城下町に繋がっていました。

また、門が位置する西の丸は政務の中心となっており、近くには中川民部屋敷中川覚左衛門屋敷が建っていました。

中川覚左衛門屋敷跡

岡藩家老の中川覚左衛門は茶人:古田織部の弟で岡藩家老を務めた古田重則の子孫です。

覚左衛門の家系は中川家に代々仕え、中川の性を賜り、1745年に現在屋敷跡が残る土地へ移りました。

この土地は岡城の中でも特に険しい場所に位置し、東南が開け深い谷があり、東西北は岩がそびえ、竹林や松の木が生い茂っていたようです。

屋敷跡地には当時の間取りのまま屋敷の床が再現されており、その広さからは当時の家老の権力がいかに強かったかが分かります。
※古田家の記録には覚左衛門屋敷跡に移った段階で2300石の俸禄があったようです。

他にも岡城には中川民部や中川但見といった重臣や城代の屋敷跡が残っているので、敷地の広さを比べてみるのも面白いかもしれませんね。

西中仕切跡

西中仕切りは城内で最も狭い場所かつ石垣で通路を折り曲げることで敵が直進できない造りになっています。

西中仕切りを抜けた先も門で防がれており、本丸を目指す敵を食い止める機能を持っていました。

また、本丸東側には西中仕切と同じ防衛機能をもった東中仕切があり、搦手口からの敵に対応していました。

太鼓櫓跡・鐘櫓跡

太鼓櫓は三の丸、二の丸、本丸へと繋がる城内で最も重要な門です。

約2mもある巨石が「切込接」という技法で隙間無く積まれており、岡藩の権威を象徴ともいえます。

また、鐘櫓は太鼓櫓と隣接しており、火災や緊急時には銅鐘が打ち鳴らされていました。

二の丸風呂屋敷跡

岡城二の丸には2階建ての風呂屋があり、2階部分が本丸の長局の先端に繋がっていました。

1階は蒸し風呂となっており、滝口側の土間と浴室の板間に加えて、
床や書院をもつ13畳の広間が設けられていました。

2階は床や書院をもつ11畳の広間があり、休憩室として使用されていたようです。

本丸と二の丸のように高低差のある曲輪を結ぶ構造をもつ2階建て風呂屋はめずらしいようです。

現在は休憩所として風呂屋を模した2階建ての建物が建っており、当時の風呂屋同様、本丸へと続く階段が休憩所内に設けられています。

本丸跡

当時本丸には、藩主の住まいとなる本丸御殿があり、御三階櫓や角櫓、多門櫓、金倉が御殿を囲むように配置されていました。

現在本丸には櫓や金倉の跡地と初代藩主中川秀成が移転建立した岡城天満神社が残っています。

なんと言っても本丸からの景色は圧巻で、くじゅう連山を初めとする九州の雄大な山々を一望でき、眼下には志賀親次が島津軍と戦った白滝川を望むことができます。

もし現在も天守閣が残っていたら、遮る木々もなく、より壮大な景色が堪能できたでしょう。

そんな天守閣ですが、1987年には岡城800年祭を記念し模擬天守閣が建てられたようですが、国の史跡であったため20日で撤去されたようです。

いつか再建され私達に素敵な景色を届けてくれることを祈っています。

〇入場料、アクセス等

入場料 
高校生以上 300円 小・中学生150円

入城時間 
9:00~17:00

アクセス
豊後竹田駅から車で約6分
豊後竹田駅から徒歩で約28分

〇おわりに

岡城は石垣だけが残る城跡ではありますが、上記で紹介した場所をはじめ数多くの見所が詰まった日本100名城にふさわしいお城でした。

石垣のみが残っているからこそ、豊かな自然と調和して素晴らしい景色となっているのかもしれません。

大分駅から車で1時間数分と中心部から離れた場所にはありますが、
人生で1度は行く価値のある城だと思います。

ちなみに岡城下町には、大分県でも有名な「竹田丸福」という骨付き鶏や唐揚げが食べれるお食事どころもあります。

丸福定食

ボリューム満点で肉厚ジューシーな鳥が味わえる名店ですので、岡城に来た際はぜひ食べてみてください。

最期まで読んでいただきありがとうございました。

〇補足(用語)

野面積み(のづらづみ)
石垣登場時に使われていた、殆ど加工していない自然石を使用する技法。
石と石の隙間には小さな石を詰めて隙間を埋めていた。

打込接ぎ(うちこみはぎ)
石の表面や石同士をある程度整形し、隙間を少なくする技法。
石同士の隙間には、間詰石(あいづめいし)と呼ばれる小さな石が打ち込まれた。

切込接ぎ(きりこみはぎ)
石を整形し、密着させることで隙間を無くす技法。
隙間が殆ど無いため敵が登るのが困難であった。

乱積み(らんづみ)
不規則に積まれた石垣。
石のへこんだ部分に出っ張った部分を落として積んでいく。

布積み(ぬのづみ)
石が横一直線に積まれた石垣。
別名を「整層積」とも呼ばれる。

谷積み(たにづみ)
石が斜めに積まれた石垣。
切込接ぎの普及普及後に生まれた積み方。

算木積み(さんきづみ)
石垣の強度を高めるために、石垣の角部分に用いられる石の積み方。
隅石(すみいし)という石垣の角部分に使う石の短辺と長辺が一段ずつ交互になるよう積んでゆく手法。

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