田代島(a.k.a. 猫島)で過ごした遠い記憶
私が住んでいるニューヨーク市は自粛要請が3ヶ月目に突入している。もともと一人でいるのは苦でない性格の私だが、知らぬ間に心が疲れているということに先週気付いた。それは郵便局に向かう途中。からりと晴れた気持ちのいい昼下がりなのにストリートに人影はない。ふと空を見上げると、昔よく通ったナイトクラブの入り口のひさしが目に入った。そこに並べられた、NEW YORK I LOVE YOU の文字を見て突然こみ上げてきた、涙!マスクで覆われた口元に嗚咽がこもる。そのメッセージに感動したわけでもないのに何かが引き金になって、友だちと一緒にアフターアワーを楽しんでいたころの記憶、音楽に身を任せて踊る人たちの汗と高揚感と夜明け近くに起こることへの期待が充満していたあのちょっとクレイジーな空間が蘇り、もう私たちは2度とそこに身を置くことができないかも、という絶望感がもたらした不意打ちの涙だった。ぎゅっと抱えた小包に意識を集中して動揺を乗り越えた。
多くの人がそうであるように私がコロナ禍の中で敢えてよかったことを挙げるなら見る時間がなかった映画やTVシリーズを好きなだけノンストップで見続けられること。シティがいわゆる「ロックダウン」状態になった2ヶ月前、いざとなれば食材のデリバリーも利用できるしな、と収入が絶たれたにも関わらず私はAmazon Primeの会員になった。このおかげで、またしても思いもよらず蘇ってきた記憶、私が人生で初めて人を想うということを知った出来事がある。きっかけは カリフォルニア在住のRandon Donoho という人が製作したドキュメンタリー映画「Cat Heaven Island」(ネコ天国の島)。
これは宮城県石巻市の港から船で1時間ほどに位置する、1日で島を1周できてしまう小さな島、田代島(たしろじま)に暮らす猫と人を追ったドキュメンタリー映画。その数の多さから「猫の島」として知られている(ということをニューヨークに住んでいたせいで私は近年まで知らなかった)。
実は私は1970年代後半、小学生時代のほぼすべての夏休みをこの田代島で過ごした。というのは私の母は宮城県出身で石巻市に属する田代島には母のいとこたちが暮らしていた(現在は石巻に移り住んでいる)のだ。母も第二次世界大戦中は仙台から田代島に疎開して暮らしていたこともあり、東京で結婚し2人目の子ども(私の妹)を出産してそちらに手がかかり始めると、かまってやれない長女の私を自然に囲まれた田代島に送り出すようになった。
初めて田代島に向かったのは確か小学校2年生の夏休み。母は上野駅から仙台行きの特急列車(まだ新幹線はなかった)に私を乗せた。母は乗らない。4時間半列車に揺られて私が1人仙台駅に到着すると近くに住む母の妹である叔母にピックアップされた。叔母は私と同年代の自分の息子2人(私のいとこ)を連れていて、その足で私たちは石巻に向かう。そして私といとこの3人は田代島行きの船に乗せられる。アメリカでは(多分いまの日本でも)考えられないことだが当時の日本では10歳にも満たない子どもたちだけで公共の交通機関を利用しても誰も咎めることがなかったのだ。
そうして船に乗り、私は初めて田代島が見えてきたときのことをいまでも憶えている。湾の奥に小さなビーチが広がり、堤防が伸びているのが見えた。陸地には森がこんもりと盛り上がっていた。海の水は信じられないくらいに透明でその美しさに息を飲んだのもつかの間、信じられない光景が目に飛び込んできた。堤防から数匹の小さな黒いサルが海に飛び込んでいるのだ。海に落ちるとスイスイと泳いで堤防に上がってきてはまた飛び込んでいる。都会っ子の私はゾッとした。しかし船が堤防に近づくにつれそれらがサルではないことがわかってきた。ものすごく日に焼けた島の子どもたち、それも私を迎えにきていた親戚の子どもたちなのであった。
私の記憶では島の神様がお狐で、一度観光客がペットの犬を持ち込んで島に災いが起きたことから、以来犬はご法度になったと教えられた。いま聞くと、島の守護神が猫神様だというので私の記憶違いかもしれない。ただ当時は猫よりもたくさんの人々が島に暮らしていた。とはいえ多くの男たちは遠洋漁業の漁師だったから年間のほとんどを海の上で過ごしていて夏に島にいるのはその妻や子どもたち、そして年寄りだけだった。島民同士がみな知り合いだった。私が世話になっていたのは母のいとこ家族で、おばさんに浴衣を着せてもらって浜の盆踊り行くと見知らぬおばあさんから「オイ、あんだ、スオガマに行ったタイッ子さんでば。アレ!アバイ、アバイ。(あら、あなたは塩釜で結婚したタイ子さんじゃないの。こっちきなさいよ)」と声をかけられた。結婚して塩釜に行ったタイ子は母の姉だ。私に叔母の面影をみたこのおばあさんは過去と現在の境界線が少しぼやけていたのだと思う。
それまで東京から出たことがなかった私にとって島での生活は驚くようなことばかりだった。まず方言がきつく言葉がわからない。そして最初の夏は親戚以外、私と口をきいてくれる同い年の子どもが誰一人いなかった。島を歩いていると島の子どもが木の陰からじーっと私を見ていた。一度、同じ歳くらいの子と目が合ったので、一緒に遊ぼうよ!と声をかけたらその子は砂煙を立てて走り去って行った。ある日、砂浜でいとこたちと遊んでいたら満ち潮でお気に入りのビーチサンダルの片方が流されてしまった。赤いダリアを模した大きな花が鼻緒に付いたもので東京を出るときに買ってもらったばかりだったのでふさいでいたら、翌日いとこが吉報を持ってきた。浜の近くに住む女の子が流されたビーチサンダルを拾っていたという。嬉々として親戚のおばさんに連れられてその子の家に行くとおばあさんが出て来て申し訳なさそうに言った。「どうすてっともイヤだっで出て来ないんだわ。明日まで待ってけさい」。島には食材から日用品まで扱っている雑貨店が1件しかなかった。女の子は初めて目にした大きな花があしらわれたビーチサンダルに夢中になってしまい、手放したくないと部屋に引きこもっていたのだ。私は島に来たことを後悔する。誰もしゃべってくれない上に、お気に入りのビーサンも返してもらえない。その夜に電話で東京の母に涙声で訴えると母が「もう片方もその女の子にあげたら来年の夏は島には行かず東京で家族と過ごしていい」と言う。ホームシックになりかけていた私はその条件をのみ、残りの片方も女の子にあげた。その夏、嬉しそうに赤い花を揺らしながら走り回るその子を何度も見た。その度に2度とこの島に戻ってくるものかとキーッとなりながら心に誓った。7歳の夏のことだ。
それでも私はその後も毎年、夏を田代島で過ごした。方言をマスターし、親戚の子どもたちと同じように真っ黒に日焼けして堤防から飛び込む"サル"の一員になると悪夢のようだった最初の夏が嘘のように思える興奮の毎日だった。そして忘れもしない場面に出会う。
子どもたちは朝の海遊びから戻って昼ごはんを済ませると、1時間ほど昼寝をするのがルーティーンだった。その日はなぜか私は途中で目が覚めてしまい、しんと静まり返るだだっ広い座敷にむくりと起き上がった。いとこや、はとこたちは床に落ちた操り人形のような格好で眠っている。水を飲もうと台所に向かうとおばさんが鏡台に向かって化粧をしているのが見えた。島の女が化粧をするのは珍しい。夫たちがほとんど漁に出ていて不在なので彼女たちは朝から晩まで牡蠣やホヤをさばき、子どもと年寄りの面倒をみながら家を切り盛りしていて化粧をする暇がない。初めて見るおばさんの化粧はチークが濃くて、少しだけおてもやんのようだった。おばさんは化粧が終わると割烹着を外して玄関に向かう。割烹着の下はそれまで私が見たことがないよそ行き用のワンピースだ。おばさんは何かに集中していて私には気づかない。私はおばさんの後を追って走った。おばさんはくねくねと浜に続く道を走っていた。堤防に近づくとおばさんと同じように慣れない化粧をした島の女たちが堤防に集まっていた。一列に並び、みな沖を見つめている。一言も喋りもしない。蝉が鳴く声だけが私たちを包み込み妙な静けさが訪れたそのとき、大きな汽笛が聞こえた。ボッ、ボー!弾かれたようにおばさんたちが沖に向かって腕がちぎれんばかりに手を振り始めた。私は呆気にとられた。
目をこらすと島の遥か彼方の外海を大きな1隻の漁船が横断していた。船は再び汽笛を鳴らす。ボーッ!その船はおばさんたちの夫が乗っている船だった。島に寄るわけではなく次の漁場に向かって外海を横切るだけだ。船はあまりに遠くて船の中の男たちにおばさんたちのおめかし姿がちゃんと見えるのかは疑問だったけれど、幼い私にもおばさんたちがそんなことを気にしていないことがわかった。彼女たちは、ただただ夫のことを想ってチークと口紅を塗り、一張羅を着て真夏の太陽が照りつける中、堤防から力の限り手を振っているのだ。そして船の中の男たちもそれを知っている。なんだか見たことのない大人の世界を垣間見た気がして、急に恥ずかしくなったのを覚えている。 船が見えなくなるとおばさんたちは魔法が解けたようにだらんと腕を下ろし、顔を見合わせて世間話やその夜の献立について喋り始めた。海面の反射を受けてキラキラと輝く笑顔、ああ、なんて美しい田代島の女たち! 人を想う、ということを考えるとき田代島のあの夏の午後が頭に浮かぶ。
きょうメモリアルデーはアメリカの夏の始まりの日。自粛が続いていてビーチには行けないけれど、私の心は田代島へ。
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