オンライン上映会を終えて

はじめての試みとしておこなった「オンライン上映会」が無事に終わりました。それで、改めて「映画」がこの時代にやれること、みたいなことに気づかされたので、書いておきます

映画って、一般的には「興奮」だったり「感動」だったり、もしくは「情報」だったりを観る側が求めて選ぶのが普通ですね。言ってしまえば受けることを前提に「外」から映画を見る行為です。でも、実は映画にはもっと違う役割があって、具体的に言うと「鏡」としての映画を「内」にのぞき観るために存在していたりします

映画そのもののあらすじを追うのに忙しくするのではなく、映画を観ることでぼーっとした意識に落ちて「今、自分はどのようなことに深く感じ入る状態なのだろうか、どのようなことを受ける準備ができていて、逆に準備ができていないのだろうか」そういう内面に触れる、つまり、外に映画があるのではなく、内面を炙り出すための装置として自分の内側に映画(鏡)を置く、、、「映画を観る」っていうのは実はそんな行為のことも言うのです

そして、これはとても大事なことなんですが、鏡としての映画が反射して見せてくれるのは「私」だけではないということです。「内面を探る」と言うとどうしても「私」を探ることに直結してしまいますが、そもそも「あらゆるものから自立して存在する人」などありえません。湖面に反射した自分の姿にうっとりしているのは(西欧的な)自我の象徴であるナルシス(人)です。でも、考えればすぐにわかることですが、湖面には、樹木や空に浮ぶ雲、鳥や動物たちまでもが映されているはずですね。だから、鏡を見るということは、自分を見ること以上に(自分を含めた)世界を見ることなのです

コロナ時代になってオンラインビデオ通話が人とのやりとりにおいては主流になりつつありますが、オンラインの画面に映っているのは「人の顔」ばかりです。自分の部屋で「自立した個人」として「対話」することで失われてしまいがちな「世界、もしくは全体性」を取り戻すために、オンラインで「映画」を共に観ることはことのほか大切になってくるのかもしれません

(益子町に許可を得て)『益子方丈記』で同じような試みをしても面白いと思うし、いろいろなファシリテーターに対話の場を整えてもらうのも面白いかもしれませんので、またチャンスをみつけてやってみたいと思います

映画って、すばらしいですねぇ〜
それでは、さよなら、さよなら

P.S
淀川さんの時代には、確かに生活にもっと映画が密接してありました。でも、その時代が最高だったとは思いませんから、次にススムだけですね

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