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【日記】 「この話はフィクションです」という言葉が悩ましい

「文章を書く」ことから離れすぎている気がして怖いので、リハビリがてら久しぶりにnoteを書いてみようと思います。

今回は、”フィクション”と自身の創作について、最近考えていることを軽い気持ちで書いていこうと思います。
先日、西東京市ひばりが丘の公民館主催のイベントにて、ハトノスの代表としてこれまでの活動についてお話しする時間をいただきました。”「歴史と記憶」を語り継ぐための舞台表現について”というタイトルで、ハトノスの活動に沿って私が感じたことなど紹介していったのですが、20分という時間の中でうまくまとめきれず個人的には反省の多い内容となりました。それでも、断片的な発表から大切なものを受け取って下さった方もいらっしゃり、ありがたい限りです。
今回のテーマも、その時に「『事実』と『創作』のバランスについて」というトピックでお話ししたことの一つです。準備段階ではいろんなことが頭を巡ってたテーマですが、ここにたどり着いた時にはあと1分となっててびっくりしましたね。自分の時間管理の下手さに。

ひばりが丘公民館のイベントチラシ

「この話はフィクションです」という言葉

ハトノスのこれまでの創作は、ほとんどが「フィクション」と言えます。
歴史上の出来事は基本的に「正しい」とされている流れを踏まえているし、様々な”証言”を忠実に舞台上に再現したりもしているのですが、やはりその中には様々な理由により「創作」された流れも含まれます。

例えば今年上演した『Pica』においては、「歌」のくだりは基本的に全てフィクションです。劇中歌も、私が作詞作曲したものを齋藤ちゃくらさんがいい感じに編曲してくれたオリジナルのものです。

ただ、当日パンフレットなどでよく見る(?)「この作品はフィクションです」という表記を、私は意図的に使っていません。大きな理由の一つに、「その言葉を自分自身が免罪符として利用してしまうのが怖いから」ということがあります。ハトノスの創作は今のところは「個々人の記憶」が創作の出発点にあるからこそ、「作り話です」ということを掲げるのは、予防線を張るようでしっくりきません。きっと私は、それらの「記憶」の持つ力をより引き出すような創作をしたいのであって、「フィクション」部分を前面に出したい、と思っているわけではないのでしょう。

「フィクション」が生む"ため息"を言葉にしてみる

とはいえ、ハトノスの作品は完全な「ノンフィクション」ではないので、悩ましくも思っています。事実の顔してフィクション混ぜていいの?って当然のように思います。創作物のどこからどこまでがフィクションで、どの部分が「記憶の再現」で…、みたいなものを出した方がいいのではないだろうか、とも思っているのですが、どのような手段でそれを公開するのが適切なのかの判断がつかず、今のところはいずれの作品でも出せていません。

フィクションにも様々な要素があって、「視聴者ウケをよくするために配役を男性から女性にする」というようなわかりやすい改変だけではなく、ある証言の中の一つの要素をピックアップしたり、5つくらいの思い出を一つのエピソードにまとめたりと、フィクション化される階層は何層もあって、そのすべてを網羅的に正しく説明すること自体がとてもコストがかかることになってしまって。
さらに、演劇の場合は「稽古場で変わっていく」ということもたくさんあって、言葉は勿論、戯曲のセリフとして書かれていない登場人物の立ち居振る舞いなど含めて「複数人の眼・身体を通してより”良い”表現を見つけていく」ことが演劇の面白さであれば、「記録の正しい再現」と演劇はとても相性が悪くて…。

こんな風にぐるぐる考えている時、きっと「フィクション」はとっても狭い意味での言葉であって、この世の中で「ノンフィクション」とされているものも、様々な人の手を渡ってできている以上、この「狭義のフィクション」を含んでいるのだと思います。
こんな重箱の隅をつつくようなことを考えても確実に生産性はないし、実際これで世にあるノンフィクションを糾弾したいなどとは微塵も思っていないです。ただただ、「記憶」を頼りに創作を行う中で、いつまでも悩ましいものとして存在する「フィクション」という言葉へのため息に、ここまでだらだら記したことが書いてあるだけなのです。

それでも「フィクション」を作っていく

文章がだらけてきたので、無理やり結論っぽい所に持っていきます。
どれだけため息をつこうが、結局ハトノスの創作において、いくら「記憶」が起点にあったとしても、これからも「フィクション」も取り入れていくことになるでしょう。それは、「記憶」だけだと物語の強度が足りないからではありません。私の感覚では、「記憶」を演劇化するときに足りないのは圧倒的に「時間」です。

私は、事実はフィクションに面白さで負ける、なんてことは無いと思っています。「事実は小説よりも奇なり」という言葉、本当にその通りだなと感じます。ただ厄介なのは、事実の持つ「面白さ」をきちんと受け取るためには、いろいろな知識が必要になってくるということです。ここでいう「知識」は、一般常識という意味だけではなく、一人一人の人生を通して獲得された感覚・体験のようなものも含みます。一人一人の記憶が持つ輝きがどれだけ眩しいものであったとしても、やはり他人にとっては”他人事”で、その眩しさは伝わらないこともあるのです。

勿論、全く同じ人生を歩まずとも、他の人の記憶の輝きを感じることは出来るのですが、この辺りはただただ相性の問題だと思います。演劇という不特定多数の人に見てもらう催しにおいて、その全員が「広島-原爆」を起点とした記憶と相性がいいというのは、都合がよすぎる考えでしょう。だからこそ、出来る限り多くの人に何かを受け取ってもらうために、上演時間という範囲の中で「フィクション」を共通の体験として提示する、そんな意識で私は劇作をしています。

私自身、物語をつくるということに対してとても苦手意識があります。私の作る物語より事実の方がおもしろいじゃん~~、と何度も思ってきました。でもそれは結局私がそれなりの時間をかけてその”事実”と向き合っているからこそ思うことであって、上演の場をより豊かなものにするためには、事実の面白さに甘えず、「戯曲」とも向き合うしかないのでしょう。
書いて見て思いましたが、これもまた「まとめ」というよりかは「ため息」のようなものですね。

しばらく文章を書いていない間に、こんな感じの「ため息」をたくさんつくようになった気がします。このままではこれから先書いていく作品がため息まみれになりそうな予感がして頭を抱えてしまいました。なんとかしたいですね。

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