【お仕事エッセイ】①ホテルの電話オペレータ(学生アルバイト失敗談)
1980年代、私は東京の女子大生だった。といっても、田舎から上京した垢抜けない女子大生。それでも徐々に都会の生活にも慣れ、数々のバイトも経験した。その中で結果的に一番気に入って、一番長く続いたのが、ホテルの電話オペレータのバイトだった。
バイト初日、大学の同級生に紹介された青山のホテルに、私は向かった。そこは小規模ながら、立地条件がよいこともあり、近隣の大企業や音楽・芸能関係者もよく利用するホテルだった。フロントの奥のオペレータ室には電話交換台が2席分あり、私は女性社員さんの横に座って様子を見ていた。社員さんは交換台の使い方や、電話の応答の仕方について説明しながら、電話が鳴ると手際よく応答していた。
オペレータは外線だけでなく、内線にも応答する。今では考えられないかも知れないが、当時、そのホテルでは客室から直接、国際電話をかけることができなかったので、海外に電話をしたい宿泊客(たいていは外国人)は部屋からオペレータにその旨を伝えなくてはいけなかった。
電話オペレータの仕事の中で、この国際電話の取次が一番の難関だった。社員さんが一通り、やり方を見せてくれたのだが、実際に自分でやってみないことには身につかない。そもそもオペレータは、ヘッドセットをつけているので、横に座っている私には、社員さんの声は聞こえるけれど、電話の相手の声はほぼ聞こえない。だから、自分でやってみるしかないのだ。とはいっても、外線と違って、客室からの国際電話の依頼はひっきりなしに入ってくるものではない。
「じゃあ、次に客室から電話が入ったら、鳩胸さん、とってみてね」と言われ、私はどきどきしながらヘッドセットをつけた。しばらくして内線ボタンが点滅し、客室番号が表示された。社員さんから促され、私は電話をとって、いっそうどきどきしながら「はい、交換でございます!」と応答した。すると…
「便器!!」
とおじさんの声が…。「便器????」と私の頭の中は一瞬、疑問符でいっぱいになったが、どうしたものかわからず、とりあえず尋ねてみた。
「どうされましたか? あのぅ、トイレが故障か何か…?」
と言いよどんでいると、おじさんは大きな声で繰り返した。
「便器だよ、便器!!」
「はい、トイレがどうかしたのでしょうか!?」
「あんたねぇ、ホテルの人だろ。知らないの? 便器だよ。便器!!」
東北訛りと思われるおじさんは、私の対応にいらいらして、声をさらに張り上げて、
「便器だよ、便器!!」
と繰り返した。私はわけがわからず、
「はい、便器がどうかしたのでしょうか!?」
と繰り返すばかり。
おじさんの大声が私のヘッドセットから漏れていたのだろう。私のやりとりを心配そうに見ていて横の社員さんが、そのときハッとして言った。
「それ、レストラン弁慶じゃない?」
そのホテルの地下に、レストラン弁慶が入っているということを、その時の私はまだ知らなかった。急いで、
「レストラン弁慶でございますか?」
とおじさんに尋ねると、
「そうだよ。さっきからそう言ってるじゃないか。早く繋いでくれ」
と怒られた。結局、レストランには交換を通さずに、客室から直接電話をしてもらうしかなかったので、私は平身低頭でその旨を伝えた。
いやはや、バイト初日の最初の電話応対が、こんな結果になろうとは!!
言い訳になるけれど、広島出身の私には、おじさんの東北訛りは理解できなかった。それに、ただ一言「便器(ほんとは弁慶)!」と言われても、困るではないか。せめて「便器(ほんとは弁慶)に繋いでくれ」とか、「レストラン便器(ほんとは弁慶)」とか言ってくれたら、「べんき」と聞こえるけど、「便器」のことではないんだろうなとこちらにも想像がつくではないか。
社員さんにはしょっぱなから呆れられてしまい、これからどうなることかと思ったけれど、結果的に私はここのバイトを気に入って、大学卒業まで続けたのである。小さな失敗はその後もいくつもあったけれど。
実はこの話には後日談がある。私は大学卒業後、とある外資系金融機関の東京支店に就職し、丸の内のOLとなった。職場にだんだんとなじんできて、お昼休みに先輩たちと談笑するのが日課となっていた頃、私はこのホテルでの失敗談を披露した。みんなで笑っていたら、ひとりの先輩が、
「私、この話、聞いたことある!」
と言うのでびっくり。お姉さんから同じ話を聞いたというのだ。
私がバイトしていたホテルはある商社が運営していて、ホテルの隣がその商社の本社ビルであることを、その時教えてもらった。先輩のお姉さんは、この本社ビルの電話オペレータをしていて、ホテルのオペレータ仲間から私の失敗談を聞いたという。人間って、どこでどう繋がっているか、わからない!
私の失敗談が、その後も語り継がれていたのかと思うと、少し嬉しくなったのだが、残念ながらそのホテルは今はもう存在しない。