
凍りついた瞳
一分間、目が合った。
僕はその間、メグの茶色がかった瞳の奥まで見通すことができたし、おそらくメグも、僕の瞳の奥まで見通していたのだろうと思う。
その一分間は永遠にも感じられるほど長い時間だ。
そのまま時が止まってしまったのではないかと思う程に。
疑うのならば、一度試してみるといい。
永遠の一分間。とても短くて、同時にとても長い一分間を体験できるはずだ。
僕の夢は、必ずこの一分間からスタートする。
最初の一分間がメグの瞳から始まるというのは、とても幸福なことだと思う。
僕らは無言で相手を見つめ続ける。
その沈黙の中に全てがある。
はじめに微笑むのはいつもメグのほうからだ。
メグの口角が少しずつ上がっていくのを、僕はスローモーションで認識する。
そして、同時に長い一分間の終わりを感じる。
やがて、全てが動き出す。
「朝ごはんは何にする?」
お決まりの、朝食の話題だ。
「トーストがいいね。あと、スクランブルエッグもつけて。」
僕は答える。
「飲み物は?」
「オレンジジュース。」
「いつも通りね。たまには違うものを食べたくならない?」
「変わらないことが、何よりも幸せなことだよ。」
「あきれたわ。」
メグはそう言って少し笑うと、バタバタとキッチンへ向かい、料理を作り始める。
キッチンから、メグは大声で最近の出来事を大声で話し続ける。よく通る、高い声だ。
「部屋を掃除していたらね、ゴキブリが出たのよ!信じられないわ!」
「昨日のドラマがね!もう本当に笑えるのよ!」
「よく庭に来る、太った縞々の野良猫いるでしょ!彼、昨日も来たのよ!とてもキュートよね!思わず缶詰あげちゃったわよ!ダイエットさせたほうがいいのに!」
僕はその大きな声を聴きながら、ところどころで相槌を打つ。そして、彼女が話す。相槌を打つ。相槌を打つ。相槌を打つ······。
僕はあまり話すことはない。話すのはいつもメグの方だ。彼女は自分の人生の全てが幸福で満ちているように、そして、それを話すことが何よりも楽しそうに話す。彼女の話に形があるならば、それはたぶん、太陽のようなダンスを踊っていることだろう。
僕はメグの話を楽しむ。それはどんな映画よりも、小説よりも面白いものだ。
バタバタと、メグがキッチンから戻って来る。右手には、トーストと、スクランブルが盛り付けられた皿が危なっかしく乗っている。左手には、オレンジジュースが入ったグラスが握られている。メグの歩く弾みで、ジュースは今にもグラスから溢れそうだ。
「こぼれそうだよ。」
僕が言う。
「でも、こぼしたことなんてないでしょ。」
皿とグラスをテーブルに置きながら、自慢げに彼女は言う。
「旅行に行きましょうよ。」
朝食を食べながら、僕らはよく旅行の話をする。
「どこに行きたい?」
「海が見えるところ!」
「素敵だね。」
メグはいつも海に行きたがるが、僕はそれをはぐらかす。
僕は海に行くのが怖い。
溺れるのが怖いとか、そういうことではなくて、海は果てだからだ。
もし僕らが二人で果てまで行ってしまったら、僕らのその先が無くなってしまうような気がするからだ。
「沖縄に行きたいわ。綺麗な海で思いっきり泳ぐの。」
「楽しいだろうね。」
「きっと楽しいわ!ねえ、海に行きましょうよ!」
それからしばらく、僕らはテーブルの上の料理を食べた。僕はオレンジジュースを飲み、メグは自分で淹れたコーヒーを飲んだ。
窓から日の光が差し込み、暖かかった。穏やかな時間だ。
「わたしは幸せよ。」
メグが唐突に言った。
「僕もだよ。」
僕は言った。
「でも、幸せって、何なのかしらね。」
メグが噛み締めるように言った。
この流れは、崩壊の予兆だ。
「今こうしていることが充分幸せだ。そうじゃないか?」
「そうね。でも、時々考えてしまうのよ。このままでいいのかってね。」
「問題なんてないさ。」
「私もそう思うんだけどね。でも、こういう考えが一旦頭をよぎると、もうそこから離れられなくなるのよ。とにかくずっとずっと、そのことばかり考えてしまうの。」
「考えすぎだよ。そういうときは、コーヒーでも飲んで、リラックスするんだ。」
崩壊に向かっていくこの流れを、僕は止めることができない。
「ねぇ、あなたにとって、生きる意味ってなに?なんのために生きるの?」
「君のためだよ。」
「嘘つきね。」
メグは口元だけ小さく微笑んで、そのまま停止した。
どうやら、今回も終わりのようだ。
あたりが真っ白になる。
テーブルの上の料理がかすみ、オレンジジュースがかすむ。
メグの顔はモザイクがかかったようにぼやけ、少しずつ見えなくなっていく。
僕の思考も、次第に論理性を失っていき、様々な断片だけが猛スピードで駆け巡る。
永遠の一分間朝ごはんオレンジジュース変わらないことメグ部屋の掃除ゴキブリ昨日のドラマメグ縞々の猫相槌太陽のようなダンスキッチンジュースがこぼれるメグ旅行海が見えるところメグ海が怖い果てだからだぼくらのその先幸せメグ抽象的問題ない離れられないそのことばかり考えてしまうのよメグコーヒーリラックス嘘つきね
生きる意味ってなに?
暗転。
ゆっくりと目が覚めていく。脳から目へ、口へ、腕へ、腹へ、太腿へ、足の先へ、徐々に神経が通っていくのを感じる。
目を開けると、真っ白な光が目に飛び込んでくる。
眩しいな。
体がだるい。
「よお、目が覚めたか。調子はどうだい?」
男の声が聞こえる。
こいつは誰だったか。そうだ、技術者だ。
「ああ、問題ないよ。」
「そりゃ、よかった。」
光に目が慣れてくる。僕は黒いリクライニングチェアに座っている。周りは白い壁。頭にはヘルメットのような、鉄製の重いものを被っている。隣では技術者がコンピューターを弄っている。
「今回のダイブはどうだった?」
技術者が尋ねる。もう何十回も同じ質問をしたかのような、慣れきった口調だ。
「最高だったよ。」
「本当かね。俺もモニターしてたが、今回も随分短かったんじゃないか。まだ技術不足だよ。」
そう言って、目の前のキーボードを高速で叩き始める。ブツブツと独り言を言っている。
「しかし、最初の一分間。ダイブしてすぐに起こるあのフリーズはバグだね。早く修正しないと。」
「バグか。」
「そう。バグだね。致命的なフリーズだ。修正すべきだね。」
「そうか。」
僕は部屋を囲んでいる白い壁を見つめながら答えた。
「にしても、このメグって女。この女がそんなに好きかい?特に美人というわけでもなかろうに。」
「ああ。少なくとも、こんな機械をワザワザ取り付けられてまでも会いたいくらいにはね。」
「そうかい。」
技術者は僕の方を見ようともしないで、コンピューターを弄りながら言った。
それから付け足すように、ポツリと呟いた。
「少し、羨ましいね。」
彼はしばらく作業に集中し、僕は白い壁を見つめ続けた。
「なあ、君。こんなことをずっと続けられるくらいだから、金は充分にあるんだろ?趣味とかってないのかい?外に出てみようとは思わないかい?」
「今のところはそんな気分になれないんだよ。」
「そうかい。まあ、俺はそのおかげで、君からたんまり金を受け取っているわけだがね。」
「ウィンウィンってやつさ。」
「まあな。昨日もね、近くのクラブに遊びに行ったんだ。運よく女を一人引っかけられてね。最高だったよ。金を使う。酒を飲む。女とやる。結局さ、それが人生の楽しみ方ってもんじゃないかい?こんな思いができるのも、君から充分な金を貰っているからさ。」
「よかったじゃないか。」
僕がそう言うと、技術者はチラッと一瞬、僕の方を見た。
「なあ、たまには君も俺と遊びに行かないか?気分も変わるかもしれないぜ。」
「考えておくよ。」
僕は白い壁を見つめ続ける。短い沈黙が流れる。
「このダイブはね。」
技術者がポツポツと語り始める。
「ダイブする奴の思考が、バーチャル空間に影響するんだ。」
「なるほど。」
「そいつがごちゃごちゃと色んなことを考えすぎていると、人物の台詞だったり、そのへんの物なんかに、その思考が影響を与える。で、そのせいでメモリに負荷がかかって、ダイブの強制終了の引き金になるんだ。」
「つまり?」
「君は余計なことを考えすぎだ。」
僕らは黙った。技術者がキーボードをたたく音だけが部屋に響き渡っている。
「今日はあと一回、ダイブできるがどうする?」
「もちろん、するさ。」
「了解した。目を閉じてくれ。」
僕は目を閉じる。技術者がどこかのキーを一回、強くたたく音が聞こえた。
それから、瞼の裏にわずかに残っていた光が消え去り、完全な静寂に包まれる。
そしてまた、あの一分間が始まろうとしている。
あれは、技術者に言わせるとバグということらしい。
だが、僕にとっては掛け替えのない一分間なのだ。
メグとの最初の邂逅。
バグだろうがなんだろうが、僕はあの永遠の一分間を愛する。
僕の瞳と、彼女の瞳が交差する、あのとても短くて、とても長い時間を愛する。
そして、できることなら、そのバグの世界にいつまでも居たいと願う。