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次の波に乗る女
海の日が近づくと、小学生の頃に訪れた海水浴場での出来事を思い出す。
鳩子は波にさらわれた。
逆らえば逆らうほど、岸が遠ざかっていくようだった。
離岸流に巻き込まれたのだろう。
しかし幼い鳩子はそんなことを知るはずもなかった。
少し離れたところにカップルらしき男女がいた。
浮き輪につかまり、なすすべもなくもがく鳩子の成り行きを見守っている。察するに、水練を積んでいるようには見えない。
海水浴デートで一番避けたい状況に居合わせている者に多くを望めそうもない。
足がつかない。
水も濁っている。
どれほどの深さかわからない。
隣で呑気にプカプカ浮いている海藻なんて何の役にも立たない。
魚に足をかじられたくない!
鳩子が恐れていたことはそれだけだった。
魚にだけはかじられたくない!
鳩子はその一心で水をかいた。
小魚だろうが、巨大魚だろうがまっぴらごめんだ。
絶対にかじられたくないという強い気持ちが鳩子を突き動かした。
イシダイのギザギザの歯が頭をよぎった。
ボラのギョロリとした目も脳裏をかすめた。
走馬灯に違いない。
いやだ! 絶対にいやだ!
ふと振り返ると、山の様に膨れ上がった波が迫っていた。
飲み込まれるもんか!
乗ってやる!
いよいよ波がやってきた。
ぼわんと持ち上げられ、両手両足を無我夢中で動かした。
乗った。乗れた。乗れるもんだな。(注1)
そのまま何とか乗りこなし、腹で滑りこむように岸に打ち上げられた。
カップルは言葉もなく海面を漂っていた。
海藻かよ。
鳩子はそそくさと立ち上がり、何もなかったかのように立ち去った。
次の波は必ずやってくる。
案ずることはない。
そうか次の波を待てばいいのかと、これを読んで勇気づけられる人がいるとも思えないが、来た波に乗らない手はない。
巻き込まれなければいいだけだ。
ひと夏のしょっぱい経験は、今も鳩子に海への畏怖の念を抱かせる。
海を侮ってはいけない。
むやみに足を踏み入れてはならない。
とにもかくにも、何がなんでも、魚に足をかじられたくないのであれば。
ここで一句。
こちらとて かじる相手は 選びます
悪いけどこっちにも選ぶ権利くらいはありますよ、という一方的に嫌がられる魚の気持ちを詠んだ一句。
かじられたいのであれば、ドクターフィッシュにお願いするのがいいだろう。
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注1 次の波で帰ってくるという奇跡はそうそう起こらないため、昨今では速やかに手を挙げてライフセーバーに知らせることが推奨されているようである。
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