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語る楽しみ、聴く楽しみ。
シーズンごとに欠かさずチェックするドラマやアニメなんかがあると、一週間を過ごすのが楽しくなる。
欲を言えば、曜日ごとに追う作品があれば、憂鬱な明日もいくらか待ち遠しくなるし、次の日には別の作品を楽しむことができるのだろう。
わたしは飽きっぽく、継続することが不得手なため、大体アニメもドラマもそれぞれ2作品ずつくらいを追うのが限界だ(それと、週刊連載の漫画も4作品ほど)。
これほどまでに素晴らしい作品群を、たった一週間で消費してしまうことに後ろめたさもあれど、現代社会で生きる人々の一週間がとても重いものであることも事実。
わたしは、正真正銘、誰かの作る作品たちのおかげで生きていると思う。
会社員時代のある期間、ドラマや、アニメ、漫画すべてに興味がなくなり、眠る前にただSNSを眺めるだけの日が続いた。
母親から「今、これがおすすめだよ」と言われても、テレビを点ける気にもなれず、くたびれた雑巾のような身体を引き摺り、風呂に入って寝るだけで精一杯。あっという間に一日が終わる。
何かドラマを見たいな、と思っても、すでに話数が進んでいて追いつけないと諦めていたし、当時のわたしの使っていたテレビには録画機能がなかった(使い方が分からなかっただけかもしれない)。
今思えば、本当にただただ疲れていたのだろう。
会社を辞めて、フリーランスとして仕事をしていくうちに、段々と心に余裕ができてきて、ドラマやアニメを再び追うようになった。
最近は見逃し配信のあるドラマが随分と多くなったため、自分の好きなタイミングで観ることができる。
それに、曜日感覚が薄れがちな在宅の人間にとって、一週間ごとに更新されるコンテンツは人としての感覚を取り戻させてくれる。
人間とは欲深いもので(というか、わたしが愚かなので)、作品を楽しむ余裕が出てくると、今度は誰かと感想を分かち合いたくなる。
同じ作品を同じ熱量で見ている人と、対面で話したい。できれば、翌日会ってすぐにでも。
けれど、わたしにはそんな相手はいない。
一緒に暮らす夫は、わたしの感想を聞いてくれることはあっても、彼はわたしと同じ作品を欠かさず追っている訳ではない。仲の良い友人であっても、大人になれば月に1回会えば良い方だと思う。
◇
最近、好きな漫画がアニメ化した。
アニメ化されるという発表があった時からずっと楽しみにしていたし、放送直前に改めて原作を一気読みしたら、おもしろすぎてびっくりした。何度読んでもびっくりする作品なのだ。
放送がはじまると、あまりにも楽しみで、できるだけ次の放送との間(一週間の待ち期間)を短くしたいがために、自分を焦らして限界まで観ないようにする、という奇行を行うも、結局配信翌日には我慢できずに観ている。
アニメについては色々な感情が湧き上がった。それはあえてここには書かないけれど、とにかく誰かと分かち合いたかった。
できれば、原作を読んでいる人と。でも、大人になったわたしにはこの思いを新鮮なままに交換しあう相手がいないのだ。
そこでふと思い出した。
そうだ、昔は学校があったから。毎日通う学校があったから、昨日の出来事をすぐに共有できる相手がいた。
わたしの小学生時代は、まさにドラマが話題の中心だった。
月9を見ないなんてありえないことだし、シーズンが変われど作品を追うのはDNAに刻まれているのかというほど、当たり前のことだった。
子供の感想なので、大抵は「やばかったね」「カッコよかったね」「キスしたね」とか、単純なものだったけれど、たまに大人びた友達が「キスする直前で終わるパターンは、絶対次の話ではキスしない」という法則を発表してくれて、確かに意識してみると本当にそうであることが多いので、関心したことを今でも覚えている。
中学の終わり頃、それまで確実に漫画派だったわたしが、少しずつアニメに興味を持ち始めた。
わたしのオタクとしての開花はわりと遅めだったので、その頃すでにクラスでははっきりとグループが分かれていて、わたしが仲良くしていたのはアニメの話をしないような子達だった。
あの時代は、「オタク=キモい」みたいな認識が少なからずあったし、今更わたしのような新参者が近づいてもその手のグループの子達にはいい顔をされないと思っていたため、中学では孤独なオタクを貫いた。
でも、それはそれで楽しかったのだ。
高校では、本格的にアニメや漫画の話のできる友達ができた。
仲間内で熱中して観ているアニメの放送日の翌日は、顔を合わせた瞬間、朝の挨拶もそこそこに「見た!?」と合言葉のように興奮をわかちあった。
あの頃は、原作にいないアニメオリジナルキャラクターが登場することも、原作と全く異なるストーリーに改変されることも日常茶飯事だった。
わたしたちには、若いなりに言いたいことがたくさんあって、どんな作品でも気の済むまで語り合った。
好きな作品の好きなキャラクターが突然の死を迎えた翌日に、朝っぱらから「うそだよね」「帰ってくるよね」と言いながら、手を取り合って号泣したのも今となっては青々しく、懐かしい思い出だ。
友達と毎日顔を合わせる学校というものは、今考えるとそれなりに特殊な環境だ。
嫌なことがあっても、喧嘩をしても、翌日も同じように顔を合わせる相手がいるということは中々に厄介だけれど、好きなキャラクターの作画がよかったとき、無情な死を遂げたとき、わたしたちは鮮度ばつぐんの興奮や悲しみを、同じ熱量で分かち合っていた。
それはやはり青春だったし、恵まれていたようにも思う。
◇
最近、夢中になって聴いている『無限まやかし』というポッドキャストがある。
実はこの話が本題なのだ。
それは、脚本家の高野水登さんと、映画ドラマ評論家・考察ユーチューバー・お笑い芸人などの数々の肩書きを持つ大島育宙さんの二人が、様々なコンテンツについて語り合うラジオだ。
現在放送されているドラマをはじめとして、アニメや漫画、バラエティ番組など、取り上げる作品は二人の好きなものばかり。軽快な掛け合いや、好きなものに対する熱量は聴いているこちらまで楽しい気分になる。
はじめにこのポッドキャストと出会ったのは、それこそわたしの好きなドラマ『初恋の悪魔』がきっかけである。
例に漏れず坂元裕二さんの脚本作品が大好きなわたしは、彼の新しいドラマを毎週楽しみに視聴していた。
先の読めない展開と、魅力的なキャラクター、人と人との関わり……すべてに胸を打たれていたわたしは、この気持ちを誰かと共感したい、わかちあいたいという一心で、『初恋の悪魔』というワードを検索しまくっていた。
そんな矢先に見つけたのが『無限まやかし』である。
わたしがそのポッドキャストを見つけたとき、ちょうどアップされていたのは第一回目のみ。
『初恋の悪魔』について語っているのなら、正直どんな人でもいい!という思いで、お二人の名前もろくに見もせずに(本当に1秒も悩まずに)再生ボタンを押した。
それがわたしにとっての素晴らしい出会いだった。
◇
大島さんと高野さんの語りは実に軽妙で、芯を食っていて、冷静な視点を持ちながらも、二人のテンションはいつもどこか興奮を隠しきれない様子で、その絶妙なバランスがとても魅力的だ。
大島さんはやはり普段考察や評論をお仕事にされているだけあって、視点が鋭いし、知識量も多いことが聴いているだけでわかる。
不思議なのは、わたしが気づいていないことを大島さんが語っている時、何故かわたしもそれを前から気づいていたような気がしてくることだ。
大島さんの考察は、世間一般的に連想されるような「先の展開を読む」ようなものではなく、“今”描かれていることに深く向き合っているため、どこまでも自然で、作品に対して誠実なのである。
対して高野さんはあの有名な『真犯人フラグ』を担当された脚本家の方なのだけれど、良い意味でただのオタクなんじゃ……?と言ってしまいたくなるほど、わたしたちオタクの気持ちを“理解(わか)って”いる。
というか、共感力が異常で、たぶん視聴者の心を奥底まで知っているような気がする。そう、代弁者なのだ(だからこそ脚本が書けるのだろう)。
たまに高野さんが大島さんに自分のおすすめコンテンツをひたすらにプレゼンしまくる回があるのだけれど、それが抜群におもしろくて、頷きすぎて首がもげそうになる(ワンピース回を、ワンピース好きの夫の聴かせたら、共感しすぎて怖くなっていた)。
ここまで言っておいてなんなのだが、正直、このラジオのおもしろさはわたしが語るより、まず良いからポッドキャスト(もしくはユーチューブ)を聴いてみて!とURLを押し付けた方が早いかもしれない。ちなみに、コンテンツ感想の他にも雑談回もとびきりおもしろいのだ。
お二人はそれぞれ違った職種でお仕事をされているのだけれど、お互いの“好きなものへの思い”に絶大なる信頼をおいている、と側から見ていてそう思う。
魂が共鳴しているのか?という程に考え方がぴったりとはまる時もあれば、それぞれの視点が正反対で真っ向から対立(と言っても仲がいい)している時もある。
わたしとしては、彼らの語ることに感心させられることが多く、勝手に「うんうん、たしかに」とか「これについては高野さんに同意だな」とか「全く気づかなかったけど、そうかも」と、脳内でそんな相槌を打っている。
興奮気味に語り合う彼らの姿は、かつての学生時代のあの素晴らしい青春の日々を喚び起させる(本当に素晴らしい方達なので、勝手に自分の記憶と重ねるのはおこがましすぎるし、彼らは比べ物にならないほど高度なやりとりをしているのだけれど、パッション的な意味で)。
というか、どう考えても仕事の忙しい大の大人が、毎週ごとに顔を突き合わせて思い思いに語り合う、なんてまさに今わたしがやりたいことではないか!と拳を握りしめるのだけれど……。
でも、わたしの脳内では、勝手に相槌を打っているうちに、二人ではなく三人で語っているような錯覚に陥るのだ。
彼らの影響で観始めた作品もある。
気づけば、ここ数年のわたしの“誰かと共感したい!鮮度保ったまま語りたい!”ムーブは、このポッドキャストを聴くことで発散されている。まじで本当にありがとうございます。
◇
ところで、『無限まやかし』は不定期更新と言いつつ、追っているドラマの展開次第では、一本では語り尽くせず週に何回か更新されることがある。
というか、最近はもはや毎日更新しているのでは、と思うほどだ。
お二人は「今の更新頻度が特別に狂っているだけで、これが普通だと思わないで!(要約)」的なことを再三言っており、ついでに「ここまで話がまとまらないのもやばいのでは(要約)」と危惧しているのだけれど、それは重々承知した上で言いたい。
更新頻度が高いのはめちゃくちゃに嬉しいということを。
何故なら、週に一度ドラマ本編を観て楽しんで、それから数日間にわたって更新されるお二人のポッドキャストを聴きながら余韻を噛み締めていると、あっと言う間に次の週になっているからだ。……これ、永久機関が完成してないですか?
(でも、これはただ単に今のわたしのひとつの向き合い方というだけなので、無理のない頻度で!!!とにかく長く続いて欲しいです。まじで好きなときに好きなだけ不定期更新してください、という気持ちをここに書き残しておきます)
◇
お二人のポッドキャストを聴いていると、「大人だから会う機会が〜」とか、「感想の鮮度が〜」とか言っている自分が馬鹿らしくなってくる。
それに、鮮度の良い状態で話す人がいなければ、そんな相手に会うまでに気のすむまで熟成すればいいのだ。
最近、友人がハマっているというアニメを観始めたところ、おもしろすぎて一気に最新話まで追いついてしまった。
何故今までこれを観ようとしていなかったのか……と少しだけ後悔した。
その気持ちをすぐにでも伝えたいけれど、彼女と会うのは、もう少し先。
だけど、それはそれで熟成しがいがある。
それで、次に会った時は言いたい。絶対に伝えるのだ。
「あのアニメ観たよ」と。
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