「むいちゃいました」と言ってみたい
朝起きて「あ、栗だな」と思ったので、栗の炊き込みご飯を作ることにした。
窓を開けると、気持ちの良い秋の風が吹いていた。
料理を苦手とするわたしが自発的に「料理をしたい」と思うことは滅多にないのだが、ごくたまに湧き上がるような熱に駆られ、いそいそと厨に立つことがある。
それは、だいたい仕事が落ち着いていて、心に余裕があり、そしておいしそうな食材が家にあるという、この三つの条件が重なった閏年のようなタイミングでしか訪れないのだけれど、今日がまさにそういう日だった。
今、家にはたくさんの栗があった。夫の実家からいただいたものだ。
結婚する前から、夫の実家からは、季節ごとの野菜が送られてくることがたびたびあった。
それは自家製の野菜で、わたしはその野菜を食べたとき、初めて、ほんとうにおいしい野菜というものに出会った気がしたし、幼少期からこの野菜を無自覚的に食べ続けることができた彼に嫉妬の念を抱いたほどだ。
わたし自身が、昔から肉より米より野菜が好きな性分というのもある。とにかく、わたしは夫の実家の作る野菜の大ファンなのだ。
秋になって、夫の実家から「野菜を送ろうと思うのだけれど、何時がいいかな」と連絡が届いた。
夫と義母の電話の内容をそばでこっそり聞いてにやにやしていると、夫が「何時がいい?」と突然わたしを電話に巻き込んでくるものだから、すこし慌てた。
慌てたのちに、「へぁ、アッ、ゆ、夕方ごろとか?」と情けない声で答えて、「いつもありがとうございます」という言葉を、忘れ物を拾うかのように付け足した。
そして、言ったそばから、ああ、お礼を先に言うべきだった、わたしの感謝の気持ちはこんなものじゃないのに、今の受け答えはなんなんだーーと、一人反省会が開かれる。もっとなにか別の言い方で感謝を伝えなくてはと、まごまごしていると、義母は「実は郵便局がもうすぐ閉まっちゃうの」と朗らかに笑った。
その様子があまりにも軽快だったものだから、わたしは自分の妙な焦りが必要のないものだと悟る。
「栗もいれてあるよ」と加えられた言葉が、ふしぎと記憶に残った。栗が送られてくるのかあ、秋だな、と思った。
◇
そういう訳で、わたしは普段料理が好きではないくせに、夫の実家の野菜が届くと妙にやる気を出す節がある。
せっかくいただいたのだ。おいしいうちに楽しみ尽くしたいという、食いしん坊根性が働くのかもしれない。
送られてきた栗は、皆つやつやと輝き、今にもはち切れそうなほど丸々と太っているようにも見えた。
わたしは恥ずかしながら栗を自分で調理した経験がなく、インターネットの記事のみが頼りだった。
結論から言うと、栗の処理は想像以上に大変だった。
まず、「作ろう」と思ってレシピを見たものの、「30分以上お湯につけてください」という言葉に拍子抜けした。
そうか、準備が必要なのか。今すぐにでも食べたかったけれど、手持ちの仕事でもやるかーーと思い、一旦放置。
そののちに、ようやく「本題」の“栗を剥く作業”に取り掛かるわけだけれど、これが難しかった。
栗のおしりとなる部分を包丁で切り落として、手で“鬼皮”という硬い皮を剥く。
“鬼皮”という名前にも驚いた。強そうすぎる。
しかし名前の通りやはりそれは一筋縄ではいかず、わたしのデリケートな皮膚はすぐに悲鳴をあげた。
次に、“渋皮”という、栗の中にある薄い皮を包丁ではぐ作業。
これはりんごの皮をむくようにーーとあるが、栗はりんごよりも硬く小さいため、なかなかどうして難しかった。
ネットのレシピ動画では簡単そうに見えるのに。
ぶつくさ言いながらも、わたしは案外この時間を楽しんでいた。そう、この大変さはなぜか心地の良い苦労でもあった。
わたしの手によって、あらわになった栗の数が増えていくたび、ふっふっふ、おいしい栗ごはんができるぞ、と笑みがこぼれた。
炊飯器をセットしたときは、それはもう完全犯罪を遂げた気分だった。
◇
ピー、という音で仕事の手を止める。セットしていた栗ごはんが炊けた音だ。
急いで炊飯器の蓋を開けると、真っ白な湯気とともに、なんとも食欲そそる甘い香りをまとった栗ごはんがあらわれた。
ぎゅうぎゅう詰めになった栗たちを見て、ああ、剥くのを面倒くさがって、少なくしなくてよかった、と自分に拍手を送りたい衝動に駆られた。
夫に、「昼ごはんができたよ」と声をかけると、彼は喜びながらも驚いた様子だった。
そして一言目に「栗剥くの大変だったんじゃない?」と言ったものだから、わたしはこの人は栗を剥く大変さが分かる人間なのか。好きすぎる。と思った。
「めちゃくちゃ時間かかったのよ」と正直に答えつつも、わたしはどこか誇らしげだった。
「おいしいねえ」「塩加減がうまくいった」などと言いながら食卓を囲む。わたしはこれを幸せというのだな、と思った。
ベランダでは洗濯物が揺れていた。秋という季節は、人の情緒をやわらかくする力があるのかもしれない。
◇
数日後、スーパーで買い物をしていると、ある商品が目に止まった。
それは「甘栗むいちゃいました」という有名なお菓子だ(お菓子と言っていいのか迷ったが、公式サイトにお菓子と書いてあった)。
わたしの母が昔からこの商品が好きで、わたしも幼い頃から食べていた記憶がある。
ちょっと小腹がすいた時にいいよねえと、ふたりで買い物帰りにつまんだり、夜中にこっそり食べていたのが懐かしい。
一人暮らしをするようになってからも、たまに栗が恋しくなったときは買っていた。
商品自体は今でも色々なところで販売されているし、別に物珍しくはない。
それなのになぜ、気になったのか。
それは言わずもがな、わたしが最近栗を剥いたから。
いや、もっと言うと、“栗を剥く大変さを知ったから”だ。
商品名の、「甘栗むいちゃいました」がどうしても気になったのだ。
いや、「むいちゃいました」!?栗は、むいちゃった、ではないだろう、と思った。だって、あんなに大変なのだ。
小さいとはいえ結構力がいるし、何個も剥いていると指先も痛くなってくる。
「むいちゃいました」……わたしなら絶対に、「むいちゃいました」なんて言えない。
では、なんと言うのか。
「むいておいたよ」……いや、違うな。「あなたのために、むいておいたよ」くらいは言ってもいいかもしれない。
なんなら、「ふぅ」とか、あからさまに「頑張りました感」のあるため息をついても、きっと責められやしないだろう。
だってそれほど、栗を剥くのは大変なのだ。
「〇〇しちゃいました」という言葉は、わたしの言う「ふぅ、あなたのために、むいておいたよ」とは対極にある言葉だと思う。
だって、「甘栗むいちゃいました」は消費者のーーわたしのためにむいているのに、「勝手にむいちゃったけど、よかったら食べて」というスタンスを取っている。
それは、わたしが「甘栗むいちゃいました」に「むいて」と頼んでないのに、むいてくれたものだから、「むいちゃいました」と少し照れ臭そうに謙虚に笑っているような。
そこまで考えて、ふと「まあそうは言っても、きっとわたしが無知なだけで、甘栗を簡単に剥けるいい感じの機械はあるのだろう」と思い、ネットで調べた。
驚くことに「甘栗むいちゃいました」には、割としっかりめのブランドサイトが存在していた。
楽しげなサイトから、この商品が消費者だけでなく会社からも愛されていることがひしひしと伝わって来た。
しかし、わたしはふたたび驚愕する。
なんと、「甘栗むいちゃいました」の「むいちゃいました」の作業は人の手で行われているらしい。
わたしは自分の短絡的な思考を恥じた。なんだ、いい感じの機械って。そんなのはない。「むいちゃいました」は、手作業なのだ。
そこでわたしはふと思った。
たしかに栗を剥く作業は大変だし、剥いたからにはその大変さを相手にもわかってほしい。
けれど、もし仮に「甘栗むいちゃいました」の商品名が「ふぅ、あなたのためにむいておいたよ」だったら。
それはもう、めちゃくちゃ恩着せがましくて、買う方もなんだか萎縮してしまうのではないだろうか。
「ちょっと小腹がすいたときにいいよねえ」なんて言えない。
なんかこう、ひどくお腹がすいたときに、ありがたく食べないといけないものなのだろうと思い、生半可な気持ちで食べてはいけない……と買うのをためらってしまうかもしれない。
そこまで考えて、わたしは改めて「甘栗むいちゃいました」の「むいちゃいました」は、お菓子として生きていく上での(マーケティング的な)生存戦略ではあるものの、ものすごく雑な言い方をすると、愛なのかもしれないと思った。
そりゃ、むいてもらった側が愛だなんだと騒ぎ立てるのは傲慢かもしれない。実際に剥いている人はやはりとても大変だろうから、それって愛とかじゃなくて労働なのだとも思うし。
けれど、わたしは「甘栗むいちゃいました」の「むいちゃいました」イズムをとても愛らしく思う。
わたしはまだまだ精神が未熟なので、頑張ったら頑張った分だけ褒めてほしいし、なんなら自分から頑張ったよと言ってしまう。
それはそれで別にいいのだろうけれど、時折苦労や手間をまるでないもののように「むいちゃいました」と、軽快に笑えるような人を見て、かっこいいなあと思う。
あ、そうか、と気づく。たぶん、それはわたしにとっての義母の姿であるような気がした。
あの時、慌ててお礼を言うわたしに電話口の義母は、あっけらかんと笑っていた。
彼女は、自分の善意に見返りを求めていないような、爽やかさをまとっている。
そしてその姿は、夫によく似ている。
栗はまだ半分くらい残っている。でも、すでになくなってしまうのが惜しいと思う。
わたしはもう栗を剥く大変さを知っているので無敵なのだ。
次はどんな料理にしようか。
それで、夫に、大変だったねと言われたら「むいちゃいました」と笑ってみせようか。
想像するとそれだけで愉快な気持ちになる秋の夜だった。