趣味論② 距離感を間違えると趣味じゃない
はじめに
前回は何となく趣味について書き散らしてみた。思った以上に楽しかったし, 今回も何となく書き散らしてみたい。しばらくは趣味について, 僕が思うことを書いてみようと思う。とりあえず, しばらくはバイクと趣味について書き散らしてみよう。
電車なんかくそくらえだよ
そもそも, 二輪の免許を取った理由は何だったか。それは日常にささやかなスパイスを……と言えば格好は着くが, 理由はそこまで格好良くない。
ところで, 松尾は電車がとても嫌いだ。満員電車で人に揉まれるのが嫌いなのではない。電車に乗るという行為自体がそもそも嫌いなのである。理由は至って単純明快, 周囲の状況が気になってめっちゃキョロキョロするからだ。どこぞのかき氷機みたいに目玉が右往左往する。
しかし, 何故わざわざ電車が嫌いと宣うのか。それは松尾がどこかへ行くことが好きという趣味と相反するからに起因する。遠くに行くという目的を果たすための足として, 電車という手段を用いることが本当に嫌いだからである。遠くに行くことが好きなのに, 遠くに行く手段が嫌い。
だからこそ, 旅をするため, 遠くへ行くためという手段の一つとして二輪に興味を持つことは, ある意味で必然だったのである。
そして手軽にどこか外へ行く手段を求めるべく, 二輪に手を出したわけだが, ここにもまた別の相対が存在した。
ギア車がめんどくさい
二輪が好きな人間が放つとは思えない言葉である。
白状しよう。僕はマニュアル操作があまり好きはない。特に発進時の操作だ。ニュートラルに入れる。赤信号が変わる。1速に入れる。どんどんギアを上げてアクセルを開けていく。
めんどくせぇ。
この操作は本当に苦痛だ。最初の数十キロならまだいい。遠くへ行けば行くほどこの操作が本当に面倒に感じる。自分で操っている快感よりも, 怠惰が勝ってしまった。特に真夏日なんかは最悪だ。
だから僕はAT車がとても好きだ。もしくは遠心クラッチかDCT。自動的に色々やってくれるのはとても好きだ。ならばずっとAT車に乗っていたかというと, そうではない。かっこいいと思う二輪はMT車なんだ。このとても身勝手な相対はとても僕を苦しめた。勝手に苦しんだ。
まだまだこんなもんではない。身勝手な相対はまだまだ続く。
人は苦手なのに注目されるのが好きなんだ
ああ面倒くさい。
先述の通り, 僕は他人が苦手だ。知らない人と話をすることは苦ではない。 その場限りならなんとでもなる。しかし本格的に仲良くなることは本当に苦手だ。結果遊ぶ人も特定の人となることが多い。陰キャここに極まれり。
しかし, 面倒なのはそこそこ見栄っ張りという属性をもっていることだ。人は苦手だが褒められるのは好きだ。それがバイク選びにどのような影響を生むか, それは自分の用途には合っていないが, カッコいいと他人に思われるようなバイクが欲しくなるということだ。少し専門的な話をすると, pcx160(ホンダのめちゃ良いスクーター)よりもcb1300sf(ホンダのカッコいいネイキッドバイク)の方が好きなのだ。
捻れば進む。燃費は良い。どこまでも行ける僕に合ったスクーターよりも重く, 維持費がかかる疲れるネイキッドバイクを欲しいと思うのだ。
つまるところ, 自分にとって確実に幸せになる方法よりも, 他人から勝手に評価されようと思い込んで確実に不幸せな方法を優先するということが自分の趣味における最大の不幸だった。空しいとわかっていても, それを捨てきれなかったのだ。
趣味との距離感を保つ
失敗の連続の中で, 自分は趣味に対して相反する矛盾を抱えていることに気づくことが出来た。そこで産まれた趣味観は「趣味との適切な付き合い方を知るべき」というものである。
趣味との距離感は千差万別だ。カネに時間, 環境に立地。誰一人として共通しないのではないかと思ってしまう。つまり, 「趣味との距離感」も人それぞれになるのではないか。
例えばバイク屋に行ってみる。あるディーラーは販売を第一目的に淡々と話しかけてくるかもしれない。また別のディーラーは, 同じバイク乗りの目線から, 同じ仲間を増やすために熱心に話しかけてくるかもしれない。
ここで書きたいのは, どちらが優れたディーラーなのかということではない。どちらのディーラーも自分の本心を汲み取っていない可能性があるということだ。本心は時として自分さえも理解していないこともあるのだから, 況んや他人をや。だ。しかしずっと付き合いがあり, バイクをそのディーラーのもとで売ったり買ったりすれば, ディーラーも自分の本心に気遣ってくれるかもしれない。適切な距離感で接してくれるかもしれない。
趣味の話に戻そう。何か趣味を始めてみる。没頭してみる。色々買ったり時間を使ったりしてみる。自分の身の丈に合わないことまでやってみる。失敗し, 適切な距離感を調整する。
趣味における適切な距離感の具体例は何か。
たとえば費やすカネ。
たとえば費やす時間。
たとえば費やす努力。
くどいようだが, これらは全て十人十色だ。
最高級の質感を持つ外車大型バイクと捻れば進む国産小型スクーター。
土日になれば毎日遠出をする人と近所の海岸を気ままに流す人。
ライディングスクールに通うこととダラリとしたポジションで気楽に乗ること。
趣味においてどちらが正しいかではなく, どちらが自分に適切なのかを測ることが大切なのではないだろうか。
意見:ヒトとモノの間合い
以上のことを踏まえた上で, 僕は趣味における距離感をヒトとモノの間合いと言い換えたい。
趣味をするとき, そこには「行う」ヒトと「行われる」モノがある。
ヒトには性格がある。モノには特徴がある。この二者の間合いを調整することが趣味において重要となるのではないか。
さらに, この二者にはイニシアチブが存在するようにも思えるのだ。ヒトが優位に立てば, ヒトの性格になるだけ適合する特徴のモノを選ぶように, モノが優位に立てば, モノの特徴に合わせてヒトの性格を抑えるように。
この二者の距離が自分の許容を超えて近づけばお互いが衝突する。自分の許容を超えてひっきりなしに趣味のことを考えるとしんどくなる。逆に離れすぎるとどうなるか。趣味は途端に形式的なものに変わる。淡々とこなしていくことが本当に趣味と言えるのか。
この間合いさえ誤らなければ, 楽しく趣味と付き合えると思うのだ。
場合によっては僕みたいに, ヒトの「楽をしたい」とモノの「カッコいいが操作は難しい」という, 相反するケースもある。このケースはとてつもなくしんどい。時として失敗も無駄もあるだろうけれど, それらを重ねていくと「ちょうど良い」選択肢が見えてくる。それまでは失敗するしかないと思っている。
お洒落なカフェで, お洒落なケーキセットを食べることが趣味の全貌ではない。コンビニのコーヒーを片手に, 日向ぼっこをすることも趣味だっていいのだ。
ただし間違っても, どちらの趣味が正しく, 優れているかのみを考えてはならないと思う。ましてや, 自分の趣味の在り方で他者にマウントを取る行為は逸脱しすぎているとさえ思う。
改めて, 趣味を続けていくにあたり, 自分の内側に耳を傾けるべきだと考えた。相変わらずこれも自戒である。
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