文劇3の消化不良
先日、無事に幕を引いた文劇3。
東京公演に2度足を運んだ。
その衝撃が自覚しているより大きいようで
あらゆるコンテンツがいまいち届いてこない。
思考が感情が、あの点に引っかかって
現実についてこれていない感じだ。
すこしでもその引っ掛かりが取れるように
言葉にまとめてみようと思う。
☆全体の感想
あの作品がよかったかと聞かれて
素直にうなずくことができない。
好きかと言われても肯定しがたい。
しかし嫌いなわけでもなく、ましてや悪いわけでもない。
ただ、"よかった"という言葉で丸めるものではない。
確実に爪痕を残していったのに、
具体的になにがそうしたのかを伝えがたい。
自身の言葉の拙さ、未熟さによる部分もあるだろう。
それにしても、だ。
そして万人には進め難い。
この状況下でも観劇をする層をターゲットにして
或る種ぶっこんできたな、といった感じがする。
個人的な話をすると
日ごろ観劇をするといえば2.5次元が主で
好きな作品の表現のひとつとして観たい、いった具合。
頻度としては年に2~3本足を運ぶ程度。
1作品につき2回は、金銭的に許すならば観る。
余談としては某夢の国のショーパレードが好きで
可能であれば季節ものを1回は観たい人。
生きている人間が出てくる表現を観るとするとその程度だ。
追いかける俳優さんもいなければ、
熱心にあらゆる観劇をするタイプではない。
オタクはひとつジャンルだけでも忙しい。
舞台を観終わった時の多くの場合としては、
○○がかわいかった!!!いや~~あの動きはかっこよかった!!!
はぁ~~~尊い~~!!!
!!!!
という
オタク特有のまぁ語彙のないけど感情は確かにうごいた~~!
それな~~!!
のような同じ言葉の外面を繰り返しながら
中身の感情は観劇中に動いたものを
とっかえひっかえ詰めている状態だ。
(たまには本当にそれしかできないこともあります・・・よね)
そして、明日の生活も仕方ないけどやってやるか。とか
先々への不安からその一瞬でも解放されるとか
そんな未来への希望とかを受信
あるいは変換して消化することが個人的に多い。
(好きな作品自体そういうのを選びがちな傾向はある)
今回の文劇は
そんなものではなかった。
いつもの、気持ちの昂りで
まくしたてるようにキャラクターそれぞれのよかったポイント!!!
を、言う気分にもならない。
打ちひしがれ、ゆっくり反芻し
うなだれながら帰りの電車に揺られた。
確かに話の展開的に、ハッピー!
とはならないのは分かる。
ただ、キャラクターが作中でどうなったか、
そのこと自体が悲しいとか、そういう気の沈み方ではなかった。
もっとこう、
個人それぞれに突きつけられるように思えた。
私以外の人達は、一体なにを思ったのかそれぞれに聞いて回りたくなった。
舞台特有の会場がひとつになるような感覚
それとは真逆。
希望とかそういった、なにかひとつの回答を与えられたというより
個人それぞれに問いかけているように感じてならない。
たくさんの人があの会場内にいるにもかかわらず、
どうしようもなくここで座る"個"であり"孤"を。
それぞれが"この道"をどう進むかを問われているような感じが未だに抜けない。
抗っていかないといけない
火をともし続けないといけない
暖かい希望とは違う
なにか切迫したものがここに残っている。
それもある種の希望であり糧であるともいえる。
☆作中の疑問
あの館長はいつの時代の存在だったのだろうか。
かつての時代のモノだと最初は思った。
でも、もしかして
"この先"の時代のモノではないだろうか、と頭を過った。
この先、世の中が争いへ向かっていくんじゃないか・・・
そんな恐ろしい考えが頭の隅でこちらを見ていた。
ただ、"世の中が争いへと向かうのでは"という考えは、
観劇中に初めて抱いたものではない。
自身の中にかねてより、そういった考え方が存在している。
今回をきっかけとしてそれを思い出したのだ。
歴史というものを授業でやらされた程度の知識しか
持ち合わせていない人間だからかもしれない。
さらに昨今のシャカイのことも深くは分かっていない。
メディアが報じる言葉がそのままの意味で
"正しいこと"でないことくらいは分かる。
かといって何が現実なのかを自身で調べて
意見を身に持つほどの熱意はない。
そしてそれに耐えうる精神も持ち合わせていない。
恥ずかしながら自身の生活を平行に保つだけで精いっぱいだ。
(どこかで起きている不条理、やりきれない暗い話題を
あまりに吸収してしまうと濾過しきれなくてしぬ。)
オカしいことは感じながらも
仕事に生活に趣味に
毎日を送るだけでめいいっぱいである。
そんなボヤボヤした現実しかないから
マンガの読みすぎドラマの見すぎ
与えられた情報から
お得意の妄想、フィクションを構築しているだけかもしれない
世の中はそれほど劇的なことに満ちていない。
いまこうして少し落ち着いて俯瞰すると
ただの考えすぎだったという気持ちも大きい。
それでも自身のなかにあった
この先の時代への不安を思い出したこと
あの館長が、私たちからして
過去ではなく未来のモノではないか
と考えてしまったこと
それに足りうるだけの不安定さは
いまこの世の中に満ちていると思うのも気のせいではないのか。
今なお人々の足を鈍らせ続ける件のウィルスも
それの一因となりうる。
きっと争いは、
ひとつの大きなできごとを引き金にするのではなく、
徐々に生活を脅かしていく
或る時、蓄積したそれが壊れて、混沌となっていくのだろう。
気が付いた時には誰も戻ることのできない
右をむいたら従うしかないような
いまその一歩を着実にすすめているのではいか。
その不安を思い出したのだ。
(こう文章にすると花粉症みたいですね)
もしその道中に私たちがいるのならば
それは抗っていかないといけない。
それに抗うこと
個人であるということは
自身が考え、主張し、
従うべきでないことには抗うこと
従うべきことを自分で選び取ること
それに文学があらゆる芸術が
表現されるがままで必要なのだと
作品にそういった未来への警鐘は込められていなかったかもしれない。
しかしどうしても思い出してしまったのだ。
(どちらかといえば、文化や芸術
そういったものへの国による規制など
そちらの方面のメッセージがあったようにも思える。
詳しい方がまた受信しどこかで言語化していることを思い・・・。)
文学は個人のものである。
その個人のものを誰かにわかってもらおうだなんてことは思ってはいない。セリフの詳細は覚えていないが、そんな文言があった。
これは、引っかかるコレを少しでもほどくために
ごく個人が自分のために連ねた言葉の群れである。