「普通」が存在しない世界へ
海外へ行って気が付く人も多いようだが、私は高校がそうだった。
芸術系の学校に進んだ私は、周りの人たちの多様性に衝撃を受けた。
同じモチーフを描くにしても、面白いと思う箇所、表現の仕方は本当にそれぞれだった。
また、ひとつの作品に対する感想も、人それぞれ違った。
「これは白だね」と言う人がいれば「これは赤だね」と言う人もいた。
そうすると、なるほど、あなたには白(赤)に見えるのね、と受け入れてもらえた。
どういう受け止め方をしても、芸術は自由だった。
「作者らしい作品」という評価もあった。
どんな表現も、どんな感想も、「その人の考え」として受け入れる土壌があると思った。
そんな人たちに囲まれて、私も自分の意見を自由に言えるようになった。
それまでは、女子グループで無理に共感せざるを得ない場面もあったから、
私とは違うね、とそのまま肯定的に受け入れられることが感動的だった。
未だに高校時代の仲間で集まると、どんなバカみたいなことを言っても、一旦受け入れてもらえる安心感があるよね、と話題にもなる。
「普通は白だよ」とか「赤いのが常識でしょ」という話をする人なんかいない。
代わりに「私は白に見えるよ」とか「私はもっと赤くした方がいいと思う」となる。
そうして「普通である」こと以上に、「普通じゃない」ことが面白くて価値があると知った。
というか、「普通」とは主観的な幻想でしかないとも思う。
夫がたまに「普通こうでしょ」と言うけれど、私はそれを言われても心に響かないことをこんこんと説明する。
「俺はこう思う」けど「私はそう思わない」という状況があるなら、
白と赤を合わせてピンクにしてもいいのが、人間同士の生き方だと思う。
「普通こうだ」って言っちゃうのは、つまりただ価値観を押し付けようとしているだけなのよ。
だから言われた方は苦しくなってしまうんだ。
いつか「普通」が死語になりますように。