正義という名の排除
多分どこの職場や学校、人が集まる所にはその場所になじめない人、又は適さない人が少数存在すると思う。
そして、その人たちは集団から少しずつ浮いた存在になり、何か場違いなことをしたり、小さなミスをすることで、その集団から「まっとう」な指摘を受ける。
それが積み重なると、「まっとう」な理論を盾に集団はその浮いた存在の人を「排除」しようとする。表向きはもっともらしい理由だが、本音は「排除」と言われるものだ。
そして、とうとうその浮いた人がその場所からいなくなると、集団は胸をなでおろす。
この図式は、集団生活が始まる幼稚園や学校から延々と繰り返され、社会に出ればより厳しくなる。
これはどういうことなのだろう?
どうして皆そこに疑問が今までなかったのだろう?
「集団」に存在する人も、実は多種多様な考えがあり、能力があるはずなのに、飛び抜けないように、また遅れすぎないように集団の「枠」に収まろうと、日々そのことに多くのエネルギーを無意識に使っている。
「集団」の意識は目に見えないけれど、歴然と存在する。
その枠から外れたひとをどんどん「排除」する。そして、なんの疑問も持たない。なんなら皆のために「当たり前の」「良いことをした」という感じだ。
私はいつもそのことに小さな「違和感」を感じながら生きてきた。
「違和感」を感じながら、集団の意識には合わせられないので、自分のできることをし、またそのひとの「才能」を見るようにし、心の中で応援をしていた。
そしてその人たちが集団から去るときは、いつもチクリと心が痛んだ。
後に残るのは「これでいいのだろうか?」という思いだ。
そしていつしかその思いも風化し通り過ぎて、また同じことが起こる。
「共生」とはどういうことだろうか?
もっと「成熟」した社会を創っていくにはどうすればいいのだろうか?
「排除」され、去っていった人たちも、自分と何ら変わりない同じ「人間」なのだとどうすれば分かるのだろう?
自分が「排除」されないと、どうして思えるのだろう?
「想像力」はこういう時に使うものでもある。
「排除」する理由は正義の名のもとに、また効率重視の社会にあっては皆が「仕方ないだろう」と思う事柄をこれでもかと積み重ねることができるだろう。
でも、その前に同じ「人間」としてお互いを「尊重」するという基本的なことがするりと抜け落ちているような気がしてならない。
「いのち」に変わりはないのだ。
たとえその人がどんな悪事を働いたとしても、「いのち」に変わりはないのだ。
粗末に扱われていい「いのち」は存在しないのだ。
そのことを皆が「認識」し「常識」として初めて、本当に「共生」できる社会が創られていくのかもしれない。
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