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オタクは趣味か?

こんにちは、波多瀬です。
最近よく見る文言に疑問を覚えたので自分なりに解釈する。

「オタクを辞める」といった言葉を私は理解ができない。
それの派生で「推しを探しています」みたいな系統の言葉も理解ができない。

とりあえず「オタク」と「推し」という言葉の定義について確認する。

お‐たく【▽御宅】
5 ある事に過度に熱中し、詳しい知識をもっていること。また、そのような人。「アニメ—」
[補説] 5は1980年代半ばから使われ始めた言葉で、当初はやや軽視する言い方だった。仲間内で相手に対して「おたく」と呼びかけたところからという。多く「オタク」と書き、また近年は「ヲタク」と書くこともある。

デジタル大辞泉

推し
推し(おし)とは、特定の人物やキャラクター、作品、商品などに対して、熱心な支持や愛情を示す行為やその対象を指す言葉である。

実用日本語表現辞典

とのことである。
デジタル大辞泉も言う通り、波多瀬が中学生とか小学生の頃くらいまで、「オタク」は蔑称だった。
この話は以前にしていると思うので省略するが
とにかく「オタク」というだけで忌み嫌われていた時代に私はオタクになった。

波多瀬は「オタク」を「そういう性質」だと思っている。
社会性も何もかもをかなぐり捨てて好きな物に熱中するというのは、まぁ普通の人間はしない。
それが出来るというのはもう才能だと思う。

波多瀬の家がオタク絶許の家であることは以前話た気がする。
先日、その筆頭である母が言った。

「かっこいいオタクになりなさい。あんたのそれはもう才能だから」

これを聞いた瞬間勝ったなと思ったから私は嫌な娘である。ごめん母。

性質だから辞めるも何もないと思っているし
好きな物以外は基本どうでもいいというスタンスの
オタクが社会的に受け入れられにくいのも当たり前だと思っている。
オタクは死ぬまでオタク。

そんなオタクが社会的に受け入れられてから
「オタクを辞められる」人間が増えたように感じる。

色々考えた結果、結局「オタクを趣味にしている人間」と「オタク」は別の生き物だという結論に至った。

思い返してみれば波多瀬は物心ついた時からオタクだった気がする。
幼い時に見ていたビデオも永遠に同じ映画(『バグズ・ライフ』だった)だったし、幼稚園では1人でずっと泥団子を作っていた。
友達がいないとかそれしかないとかではなくて、本当にそれが楽しくてそれをやっている人生だった。
小学校では学校の花壇の花の種を収穫しては小瓶に分けてそれを箱に入れて仕分けて、季節が来たらそれを植えてを繰り返していた。
中学になってからは推しに出会って人生が推しで染まった。

対象が違うだけでやっていることはずっと同じである。
部活は所属していたものの幽霊部員だったし、クラスの打ち上げも数える程度しか参加していない。
「そういうことをしている時間がなかった」というのが今振り返った時の感想である。放課後に時間があるならもっと好きなものに時間を使いたいと思ってしまうタイプだった。
後悔はしていないが他の人には薦めたくない道である。
このペースで生きてきたから今も交流のある友達なんてほぼいないし同窓会にも顔を出さない人間が完成してしまった。

こういう人間側からすると「オタクをする」人間は別人種である。この手の人達は多分「オタクを趣味にしている」人種なんだと思う。
ここら辺も昔の記事で書いたような気がする。羨ましいとは思っているし攻撃の意思は無いけど、生き物として別物だなと思っている。
良い意味で推しとも「オタク」とも距離を持って付き合えている人なのだと思う。
だからこそ「○歳になったらオタクをやめる」という選択を選べるんだと思う。

波多瀬はといえば、あの瞬間に私の命を救ったのは推しだから!というその一点だけでもう10年推しに人生を捧げているし、今後も捧げる覚悟を決めてしまった。情緒も財布も勝手に握らせている。異常な距離感である。推しからしたら多分怖い。逃げてくれ推し。(逃げないから推しが好き)

ここまで書いてきて「推しを探している」という方はやや理解ができるようになった気がする。
推しがいない時期のオタクというのは基本的に、砂漠にたまたま打ち上がってしまった魚みたいなものなのでその魚が水を探していると思うと涙を禁じ得ない。自分もそっち側だった。
しかし「推し活がしたい」方が優先されていると正直分からない。そっち側は多分「オタクを趣味にしている」方なんだと思う。

どっちがいいとか悪いとかではない。程よい距離感を保つことで社会性も保っている人間のことを私は心の底から尊敬している。自分はやろうと思っても出来ないから。
ただまぁ、別の生き物なんだなという結論は出た。

何だか締まらない終わりになってしまった。
以上、波多瀬でした。

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