鱗光と影(後編)
それから数日。ハヅキは魚市場へ行く事も無く、呉服屋の娘としての日常を過ごしていた。
客に愛想を振りまき、問屋に出掛け、売れた分の隙間を新たな仕入れで埋める。目が回るほどではないが、腰を落ち着けてゆっくり食事を取る事が難しい程度には忙しい。
そんな日々の暮らしが断ち切られたのは、よく晴れた朝の事だった。
「あの、蝋燭屋の娘さん……」
「本当にそんな事が?」
顔馴染みの客の声と母の声が小さく言葉を交わしていた時、ハヅキは問屋の持って来た織物を丁寧に畳み直していた。
普段なら、客と母の会話に意識を向ける事など無い。けれど、蝋燭屋の娘、という言葉がハヅキの耳を強く打った。
畳んだ織物を部屋の隅に寄せ、ハヅキは店先へ出る。母と、馴染みの客の姿は、数歩進むだけで見付けられた。
「母さん、蝋燭屋の娘さんってのは、カホさんの事かい?」
「あらやだ。お前、お客さんの話に聞き耳なんか立てるんじゃないよ」
ハヅキの声に振り向いて、母は軽く頭を小突く真似をする。客の方は気にした素振りも無く、明るい笑い声を立てていた。
「そうだよ、ハヅキちゃん。あの、櫨蝋燭を売ってる大きなお店があるだろう? あそこの娘さんが、病に伏せってるんだよ」
客に言われて、ハヅキは先達て見たカホの様子を思い浮かべる。顔色は良くなかったが、病を得ている様子は無かった筈だ。
「母さん、ごめん。ちょいと出掛けて来るよ」
「ハヅキ! どこ行くつもりだい!」
母の声を振り切って、ハヅキは通りに飛び出した。
櫨蝋燭を売っている店へは、迷う事無くたどり着けた。ハヅキの暮らす町では、蝋燭屋は一軒しかない。
絵付き蝋燭の並ぶ店先を抜け、奥へと歩を進める。いらっしゃいませと、前掛けを着けた奉公人が笑顔を見せた。
「ここのお嬢さん……カホさんに会いたいんだけど、話を通してくれるかい?」
奉公人が目を瞬く。黒目が少しだけ泳いで、眉尻が下がった。
「失礼ですが、お嬢さんとはどういったご関係で……? お嬢さんはいま伏せっておりますので、あまり人とお会いするのは……」
「呉服屋のハヅキって言えば、カホさんには分かると思うよ」
短く告げると、奉公人は聞き取り辛い声で何かを言って、奥へと引っ込んで行く。
奉公人が戻って来るまで、長い呼吸を三度するだけの時間がかかった。蝋燭を物色している客達は、ハヅキがいる事に気付いた様子も無い。
「お待たせ致しました。お嬢さんが、お通しして欲しいとのことです」
ついて来て下さい、と奉公人が踵を返す。ハヅキは目立たないよう注意しつつ、その後をついて行った。
店の裏で草履を脱ぐと、艶のある板張りの廊下に上がる。奉公人に続いて幾度か角を曲がった後、静かに閉ざされた襖の前に出た。
「お嬢さん、先程お話しました、ハヅキさんをお連れしました」
「そう……ご苦労さま。下がってちょうだい」
か細い声がそう言って、奉公人は失礼しますと一声掛けてから襖の前を離れて行く。ハヅキは一歩前へ進んで、廊下に正座した。
「カホさん、ハヅキです。入りますよ」
滑らかに動く襖を開け、室内へ入る。カホは部屋の中央で、厚い布団の中へ半身を潜り込ませていた。上体は起こしているが、具合は良くないのだろう。白いかんばせに、うっすらと蒼の影が差していた。
カホの傍らまで進み、ハヅキはまた正座する。
「こんな格好で失礼します。少し、体の調子を悪くしてしまって……」
話す声も、風でも吹けば飛んでしまいそうに軽く弱い。ただの病ではないと、ハヅキは確信を抱いた。
「具合が悪くなったのは、いつからです?」
ハヅキの問いに、カホは瞬きを返す。戸惑いを帯びた色が、僅かに伏せられた目に浮かんだ。
「熱が出始めたのは、昨日の朝からです」
ハヅキから魔除けを受け取ってからは、急に足が動かなくなる事も無くなったのだという。このまま平穏を取り戻せるかと思った矢先の、急な発熱であったらしい。
話を聞いて、ハヅキは膝に載せた両手をきつく握り締めた。指先に灯る熱を、どうにかやり過ごす。
カホを呪った者は、ハヅキの渡した魔除けの効果で呪詛が働かなくなった事に気付いたのだ。そうして、並の魔除けでは太刀打ち出来ない程の、より強い呪詛をかけた。
「カホさん、すみません。これはあたしのせいです。責任を持って、今度こそカホさんを呪詛から解放します」
「そんな、ハヅキさんは私を助けようと……」
眉尻を下げるカホへきっぱりと首を振って、ハヅキはすくりと立ち上がる。
「家へ戻って、少し準備をしてきます。今夜、あたしがカホさんのお部屋にいられるよう、ご家族に頼んで貰えますかい?」
カホは瞳を揺らがせながらも、静かに頷いた。
ぱちゃん、と、木桶の中で魚が跳ねている。魚市場で買った魚達は、薄明かりの中へのんびりと身を沈ませていた。
魚が動きを見せる度に、その体が虹色に輝く。乏しい明かりの中でも、それは明確な光となってハヅキの目を射た。
「今度も力を貸してもらうよ」
呟くように言って、着物の右袖をたくし上げる。木桶の中へ手を突っ込み、指先で底を探った。
木の感触とは違う、ざらついた手触りが指に伝わる。ハヅキはそれを摘み、水の外へと引き上げた。虹色に輝く鱗が一枚、掌で光る。
それを幾度か繰り返して、ハヅキは木桶の側を離れた。剥がれ落ちていた鱗は五枚。これだけあれば十分だろう。
手を拭うついでに鱗の水気を切り、小さな巾着に入れた。
両親に断りを入れて外に出ると、空にはもう月の気配が漂っている。
夜が来る前に、カホの元へ行かなければ。
ハヅキは早足で通りを進んだ。
カホの部屋へは、すんなりと通して貰えた。家族やお店の奉公人も、カホの様子を心配しているのだろう。
カホはハヅキが室内へ入ると、上体を起こそうとした。それを手で制し、またカホの傍らまで行く。
「横になったままで結構ですよ。そちらの方がお楽でしょう」
「すみません……」
不安定に揺れる声で詫びるカホは、朝に見た時よりも細く小さくなったように見えた。日が落ち、周囲が暗くなったせいだと思いたいが、恐らくは呪詛が少しずつ体を蝕んでいるのだろう。腹の内に生えた棘を、細い息と共に吐き出した。
「カホさん。あたしが渡した魔除けは、まだ着けてらっしゃいますかい?」
「はい。それはもちろん」
布団の中で体を動かし、カホは左腕をハヅキへ見せる。暗がりの中で浮かび上がる白い腕には、確かにハヅキが渡した魔除けが結ばれていた。
「ちょいと失礼しますよ」
巾着の口を開け、虹色の鱗を二枚取り出す。渦を巻く魔除けの模様を挟むようにして、その鱗を織目に突き刺した。
「これは……?」
「魔除けの効果を高める、お守りみたいなもんですよ。ちょいと効果が重なっちまいますけどね。今はこれくらいで丁度良いでしょう」
カホは首を傾げながらも、左腕を布団の中へ戻す。それを見届けて、ハヅキは外へ面した障子戸に目を向けた。
それから、長い瞬きを五度ばかりした後。ハヅキは針で刺されたような刺々しい感覚を項に覚えた。
ぴたりと閉ざされた障子戸の下から、黒い影のようなものが部屋の中へ滑り込む。それは僅かな明かりを反射して、ぬらりと光っていた。
ぬめる影がカホへと向かう。しかし、影は布団の端から指一本程度の距離まで近付いたところで、虹色の膜に弾かれてしまった。
ハヅキは立ち上がり、巾着の中へ右手を突っ込む。畳の上を這いずる影へ、後ろから近付いた。
「あんたがこのお嬢さんに、どんな恨みがあるのか知りませんけどね」
残り三枚の鱗を、素早く、等間隔に突き刺して行く。影が身を反らして、痙攣するように震えた。
「あたしの仕事を増やさないでくれますかい」
カホから距離を取った影へ体を向け、ぱんと手を一度打ち鳴らす。影からぬめるような光沢が消えて、突き刺した鱗が身の内へ沈んだ。
それから瞬き一度の後、影は細かな霧のようになって揺れる。
「あたしはね、呉服屋の娘なんですよ」
ハヅキがそう言った時、影はもう部屋の中から姿を消していた。
呉服屋へカホがハヅキを訪ねて来たのは、影が消えた夜から三日ほど経った日の昼間だった。
「あれから、呪詛の影響は無くなりました。ありがとうございます」
「いえ、解決して何よりですよ」
お代はそのうち請求が行くと思います。ハヅキがそう告げると、カホは淡い笑みを口元に浮かべた。それは花が控えめに綻ぶようで、見る者の心を和ませる。
「そう言えば……私に呪詛をかけた人は、どうなったのでしょう?」
「ああ、それなら心配いりませんよ」
首を傾げるカホへ、ハヅキは笑った。
「呪詛ってのは、失敗した段階で、かけた者の所に戻るもんなんです」
あの影も、夜のうちにカホを呪った者の所へ行っただろう。報いを受けた者が誰かまでは、ハヅキの知った事ではない。
安心した様子で改めて礼を述べるカホを、ハヅキは店頭で見送った。