劇団四季『恋におちたシェイクスピア』を今さら振り返る
劇団四季の新作ストレートプレイ『恋におちたシェイクスピア』は最高の作品だった。最高すぎて東京初演から12回観た。
ウィリアム・シェイクスピアの名作のオマージュや台詞を詰め込んでいるのに、まったく古めかしくない。エンターテインメントとして楽しめる上に、「あのシーンのあの台詞はあの作品からか、ちょっと読んでみようかな」と古典に興味を持たせてくれる。
そして何より、シェイクスピア作品は劇団四季によく合う。
独自の発声法が有名な劇団四季だが、その発声法を苦手と感じる人も多い。言葉を一音一音はっきり発音するものだから、カクカクして聞こえる、という。無機質で、ロボットのようだ、と。
しかしこれがシェイクスピア作品だとどうなるか。古典作品はモノローグが多かったり、そうでなくとも台詞が長かったり、そもそも古典なので言葉が古かったりする。そういった特徴は、「何を言っているかわからない」という印象に繋がってしまうだろう。
そこはそう、劇団四季の強みをぶつければ解消されるところだ。聞こえない言葉がひとつもない。だから観客が、自分の中でしっかりと言葉を噛み砕いて飲み込める。シェイクスピア作品だけでなく、古典作品を上演するときこそ、劇団四季の本領発揮と言える、と私は勝手に思っている。たかだか二年弱のファン歴だから、間違った意見である可能性の方が高いが。
それにしても、『恋におちたシェイクスピア』は、そんな古さもありながら、確かに新しい芝居だった。
劇団四季のストレートプレイはDVDを四本ほど観たくらいしか知らないのだが、役者たちの演技はそれまでの劇団四季の良さを踏まえつつ、更に進歩させたものに思えた。なんというか、もう、ものすごいのだ。一音一音はっきり聞き取れるのに、カクカクしてないのだ。
あまり演技に詳しくないので、こういう真面目っぽい演劇話はこのくらいでやめておく。もうすでにバレてる無知をこれ以上晒したくない。
とにかく『恋におちたシェイクスピア』は私のツボに刺さる作品だった。
あの有名な悲恋『ロミオとジュリエット』の誕生の裏側に、シェイクスピア自身の叶わぬ恋があったとしたら?
そんなイフの物語である。もともとは映画で、この映画もまた面白かった。あらゆる場面であらゆるシェイクスピア作品のオマージュが出るわ出るわ。そもそもヒロインの名前が『十二夜』のヒロインと同じ「ヴァイオラ」だし、明らかに作り話なのにありえそうなリアリティがあるし、シェイクスピアは情けない男だけどどこか憎めない男として描かれているし……。世の中にはこんな作品・作者へのリスペクトの表し方があるのだ、と感心した。
こう色々語ってはいるが、私がシェイクスピア作品を最初に読んだのはつい一年ほど前のことだし、シェイクスピアについて少し調べたのも、この『恋におちたシェイクスピア』の影響があってのことだ。
こうやって、それまで全く触れてこなかったような人に新たな興味を芽生えさせる、という効果は、本当に力のある創作者にしかできないことだと思う。そしておそらく、創作とはそういう役割を担うものでもあるのだ。
キャラクターもそれぞれ本当に良かった。
物書きとして苦しみながら、筆を捨ててもいいと言えるほど熱く真剣な恋をした、ウィリアム・シェイクスピア。
舞台上は女人禁制の時代に、男装してでも役者になりたいという夢を叶えようとした、ヴァイオラ・ド・レセップス。
そして何より、天才劇作家であり、シェイクスピアの親友であり教え導く存在でもあった、クリストファー・マーロウが本当に良かった。
出番はそれほど多くはない。しかし、シェイクスピアが悩んだり、迷ったり、間違った方向へ進もうとしたとき、必ずマーロウは現れる。そしてずばりと指摘するのではなく、シェイクスピア自身が気づけるように言葉を与える。
あまりにもいいキャラクターだった。飄々としていて掴みどころがなく、劇作家としての自分に誇りを持っており、けれどその誇りに囚われず、決して自分を安売りしない男だ。あまりにもかっこいい。
特にシェイクスピアとの掛け合いはどのシーンも良い。マーロウは、まだ劇作家として成功する前の彼の才能を見抜き、信じ、愛している。恋に夢中で芝居なんか二の次になっているシェイクスピアに対して、書けよ、と、「おれたちの誰よりもうまくやってのけるんだから」と言うシーンは鳥肌が立つほど綺麗だ。
重要だが過剰なドラマ性はなく、何気ない、本当に何気ないシーンである。それをこれほどに美しくしているのは、台本におけるマーロウの人物造形がうまいことと、役者がマーロウとして心の底から「シェイクスピアには才能がある」と信じ演じてみせたからだろう。
物書きはみんな心の中にマーロウを住まわせた方がいいと思う。彼は詩にも物語にも、的確なアドバイスをくれる。
そして何より、いいと思った才能は最後まで信じてくれる。