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カップ焼きそばのこと

カップ焼きそば


 食欲がなかろうが腹は減るもので、生きようとしているだけの肉体が忌々しかった。

 身体に悪いと言われ続けるのならなぜ長らく存在し続けるのか疑問に思いつつ、ずぶずぶの精神ではまともな食生活など得られるはずもなく、まだ元気だったころに買い溜めたカップ焼きそ ばくらいしか、わたしが手に出来るものなど考えられなかった。

 電気ケトルの中の水はどれだけ放置したかも思い出せず、洗うのも面倒で、百円ショップで買った安い小さなボロ鍋で湯を沸かす。

 のろい手つきでカップ焼きそばのビニールをはぎ取り、蓋を剥げば、初手からちぎれて蓋としての存在意義を失ってしまう。

 こんなこともできないのか。人類の煩悩の塊のような、どんなバカでも作れるようなものすら作れない。死にたかった。

 取り出した小袋たちの中で、かやくの袋を開けようとするも、ここから開けられると誘導されているにも関わらず上手くちぎれない。

 嫌になってはさみで切り、容器に入れる 。いっそう重たくなった腕で湯を入れ、平たい皿を蓋の代わりに使う。創意工夫などではなく、ただの惰性だった。

 耳障りな換気扇は、手入れなどされているはずもなく埃にまみれていた。

 ふわふわと責める埃を眺めるだけの無意味な五分間に、誰かが忘れたメビウスの八ミリを喫う。 

 皿をどけ、湯切りをする。穴から流れている水と、それに乗って逃げていくかやくにまた虚無を感じた。

 蓋を完全に剥がしてしまえば、 容器の隅に少しの水が残っていた。特に何も感じないまま、ソースを入れて、青のりをいれて、混ぜる。

 口に運んだカップ焼きそばは安い味がした。ただ生きるための食事だった。生きるために食べているのに、身体を蝕む味だった。





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小林マコト
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