映画「国葬の日」の試写を見ました


映画のチラシです

 映画「国葬の日」の試写会に行きました。昨年の9月27日、安倍晋三元首相の「国葬」なるものが執り行われた1日の、日本各地をスケッチした映画です。ちなみに、このスケッチという言葉は、監督の大島新さんが、上映後のティーチインで使っていた言葉。

 スケッチの言葉通り、映画は日本各地での色々な人の言葉や様子が描かれていく。それが本当に、今の日本だ。ああ、今の日本て、こうだよね~~~の姿。

 色んな人が登場し、「今日が国葬の日」であることを語る。

 もちろん、安倍晋三元首相についても語る。

 語るのだが、語るそこに、何もない。何もないんだ。何もないことがはっきりとして震えた。

 なんだ、これ、ホラー映画か?と思った。

 世論が分断された、と言われていたけど、分断しようもないほどに、何もない。「考え」というものがない。あったとしても、自信なさげだったりする。あいまいで、ええっと、う~ん、なんだか、そんなぁ~、みたいな。

 逆に妙に自信ありげな人もいるんだが、その人たちが見えているものには私ははなはだ疑問しか感じなかった。なぜ、そう見えるのかが分からないと思った。

 意見がないよりいいだろう? 
 でも、それが誤った考えでもいいのだろうか?
 誤ったとおまえが判断するのか?

 自問自答するが、やはり、意見があったとしても、それが差別や、分断や格差を煽って助長させてきた政治家を礼讃するものなら、私は受け入れられない。 

 悲しい。ホントに悲しい。なぜなら、私自身、その人たちをどう説得したらいいか、まるきり分からないからだ。

 私はこの国葬の前に、地元で「国葬賛成反対シール投票」をやった。マイクを持って話し、仲間たちと「シールで意志を示してください」とお願いして貼ってもらった。シールはけっこう集まった。賛成30、反対107 真ん中1。

 自分なりに声をあげたし、声が集まったと思っていたけど、そうじゃないのか? いや、そうは思いたくない。誰かが声をあげれば、そこに声は集まるのだと、私はまだ信じていたい。市民の声には、声が集まると、私はまだ希望を持ちたい。

 しかし、私の声はあまりに小さく、力が足りない。この国を覆う声を持たないという声はあまりに大きい。

 そのことを突きつけられた映画だ。みんなに見てもらいたい。できれば、世界中に見てもらいたい。そして子供たちに見てもらいたい。日本の問題の根源が見えるから。 

 

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サボタイ/和田靜香
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