アルゴリズム性と自由意志をめぐる対話


先日は茂木健一郎先生 @kenichiromogi と自由意志や量子論について話す場を設けて貰った。大変ありがたい時間であった。

I would like to take this opportunity to express my appreciation to you all. Gracias! Gracias! Muchas Gracias!

https://www.youtube.com/watch?v=gFOvk-BtpMI

「アルゴリズム性と自由意志をめぐる対話」とてもいい。軽やかな文字列だ。しかしながら、私の語りは、終始、つまづいていた。

以下に、茂木先生と対話するきっかけになった資料の一部を残す。私のギザギザな語りが、なだらかになればと願う。


1. 実数の実在
2. 非アルゴリズムの創発
3. 時間の矢
4. 実在の観測
5. 系の保存
6. 量子テレポーテーション
7. 意識の自由
8. 意識の創発
9. 意識の進化論
10. 内的非アルゴリズムと外的非アルゴリズム
11. 系の支配
12. 脳の系
13. クオリアの感触


非アルゴリズム


実数の実在性

ここに完璧な円が存在する。プラトン世界で、それは正しく姿が保たれるるだろう。しかし、我々の世界では、円はプラトン世界の近似にしかならない。例えばπの存在を実在化するとなると3.14…から無限に続く数字のどこかで停止しなければならない。これは、半径にしても、その輪郭にしても、そしてそれが実在する空間の幅にしてもそうである。プラトン的世界で永遠に繁栄していた実数は、実在化される際に、寿命を授かる。自らの最後の桁を観測するのである。このことはプラトン世界の公式を我々がいくら手にしたとしても、プラトン世界の材料が実数である以上、公式から得られる計算結果は全て、実在の近似にすぎないという結論を導く。この結論はプラトン世界が実在に対して、ある方向性を与えるも、その完全な姿が実在に現れることを否定する。つまり、実在された結果、計算がすべて近似化してしまうことが、計算不可能性を意味し、同時に決定論的世界を否定するので
7という誤差をとる可能性もある。
つまりここで言及したいことは、実在化される数を求めるアルゴリズムは存在せず、それは全て実在に支配された非アルゴリズある。
もう少し実数の実在化を詳しく述べる。プラトン世界にあるπが実在化したとする。その時πはある決められた最終桁で停止するのではない。πが取りうるすべての桁の中から、ランダムにその最後を選ぶのである。また、その際に現れたπの桁、その各々の値はプラトン世界のπと一致するとは限らない。3.13150…ムであるということである。そしてこの逆、実在化している数を記述するアルゴリズムも存在しない。0が10100続いた後に0が続き続けるかは決定できない停止性の問題、また、実在化アルゴリズムの存在が不完全性定理に抵触することから、アルゴリズムの不在が言及できる。これは、値が無限に定まらないという性質があるのではなく、ある値は実在化されて定まっているにも関わらず、その値が示す数値が本当に最終桁を記述しているかが判断できないということである。
実在化されて定まった数を隠れた数とする。我々はこの数を近似的にしか表現することができない。また、この隠れた数も我々の表現に近似的にしか存在しえない。そして、我々のが扱える公理公式は実在からすると理想化されたものであり、この燃料となる数に隠れた数を適用することはできない。隠れた数、つまり実在化された数字は全て離散的で、それは連続的でない。例えば、これを粒子の性質に当てはめると、粒子が波動性を獲得している、つまり連続性を獲得している時はアルゴリズムは成り立つ。しかし、粒子が実在化、つまり観測されると、それは離散的に変化し、アルゴリズムにズレが生じる。ここに非アルゴリズムが創発する。

以上をもって以下を論じる


非アルゴリズムの創発

例えばここにすべての法則を表す公式、Zがあるとする。Zは万能故に、宇宙創成から始まり、現在においてもなり立つ。では宇宙創成の時代から公式を当てはめよう。創成当初すべては統一されており、それは一つの偉大な系であった。そしてそれは時間と共に発展し、全から個へ分裂していった。ここで二つの、全く同じ要素をもった系が分裂した姿を考える。プラトン世界の記述で発展させれば、その二つの系は全く同じ発展をするはずである。しかし、実在化しているその二つの系は同じ発展をすることはない。例えば系の発展を支える粒子は彼らのいる系の中で実在化され、各々の実在値をランダムに選ぶ。一つの系Aの特定の空間yに存在する粒子の発展は、それにあたるもう一つの系A´の特定の空間y´に存在する粒子の発展とは全く同じ発展をしない。一方、プラトン世界ではこの両者の粒子に与えられている条件も数値も全く同じであるため、当然その発展過程も全く同じになる。
時間発展から見ると、系の抱える非アルゴリズムは時間発展に比例する。つまり、時間と共に両者の系は異なる顔を持つ。これにより、強い決定論は否定され、弱い決定論も局所的かつ近似的にしか機能しない。


時間の矢

テーブルから落ちたグラスは粉々に砕け散る。一般解釈であれば、時間を反転すると粉々に砕けたグラスは元の位置、元の状態に戻る。この運動はアルゴリズムであり、そこに非アルゴリズムは創発しない。一方、時間を反転せずに、全ての運動のみを反転させた場合、そこに非アルゴリズムが現れるため、グラスは元の位置にも状態にも戻らない。つまり、時間発展は非アルゴリズムを伴い、時間逆行は非アルゴリズムを伴わないアルゴリズムで進行する。
以上により時間の対称性は破れる。


実在の観測
 
二重スリット実験を考える。前提として、光の系と観測の系は全く分断されている系である。つまり、両者の系の発展に互いの発展は考慮されず、因果関係がない。
まず、二重スリットを通る光子を考える。光子の系はアルゴリズムの通りの発展をたどる。系は一度スリットにより、分断されるが、それにより系が破壊されるわけではないので、別れた二つの同一系はそのアルゴリズムを進行し、縞模様を描く。
次に観測のために、レーザー光がスリットの出口に用意される。光子の系は、観測の系をアルゴリズムに含まないため、光子の系は非アルゴリズムの影響を受け、破壊される。それにより、光子の系は縞模様のアルゴリズムを遂行することができない。つまり、観測とはある系のアルゴリズム発展が非アルゴリズムにより妨害され、変化したことである。
古典サイズの物質は、その物質の系がすべて結合しない限り、自己観測を行い続けるため、もつれない。もつれのアルゴリズムが進行する前に、他の系の妨害を受けてしまう。また、アルゴリズムの発展の崩壊のためにはアルゴリズムの発展を破壊するレベルの系の影響が必要である。例えば、時速150キロのボールは空気の非アルゴリズムには支配されないが、ヒットしたバットの非アルゴリズムには支配される。非アルゴリズムを多く抱える、優位な系のアルゴリズムが他の系を支配することを、非アルゴリズムの優位支配とする。この優位支配については意識の進化論で再び言及する。


系の保存

ある系の発展はその系が保存されるように発展する。例えば、光子をハーフミラーにあて、経路をもつれさせた後、ミラーを使い、経路を合流させ、その合流地点にハーフミラーをおき、その先の二つの経路に光子検出器を置く実験がある。この実験における光子の系は、初めのハーフミラーを通り、ハーフミラー侵入方向平行の経路A、ハーフミラー侵入方向垂直の経路Bに進行する。そして、二つの経路は進行先で直角に反射するミラーにぶつかり、経路Aは経路Bと並行に、経路Bは経路Aと並行な状態になり、最後に二つの経路の合流地点で再びハーフミラーを通り、系が合併され、アルゴリズムどおり、経路A方向の検出器にて検出される。
では、ここで、はじめの経路Aに吸収スクリーンを置くと両検出器に同じ確からしさで光子が検出される現象に言及する。はじめの経路Aにスクリーンを置くということは、光子の発展系のアルゴリズムを妨害するということである。この際、系は、低い抵抗値に電子が流れるように、自らの残った系に存在をテレポートする。その際、ハーフミラーで分かれていた系はまるで合併されたようになるので、はじめの経路Bには、はじめのハーフミラーにぶつかる前の系が出現する。光子の状態でこれを表すと、はじめの経路Aに1/2で存在した光子が、はじめの経路Bに1/2で存在した光子に吸収されるので、光子の状態が1になる。そのため、光子の系が二番目のハーフミラーを通った時に現れる状態は、はじめのハーフミラーに光子、状態1が通った状態と同じになるので、両検出器に同じ確からしさで現れる。


量子テレポーテーション

上の実験でスクリーンを置いた際に系がテレポートするとあったが、これは相対性理論を破壊しない。このテレポートは系の保存発展の範囲で起こることが制約されている現象である。それゆえ、系の発展が光速を超えない以上、光速をこえた現象をもたらさない。例えば、EPR実験は見かけ上光速を上回るが、現象としては光速を上回らない


意識の自由

意識が恣意的に自然に影響を及ぼす意味での自由意志は存在しないという立場に立つ。すると、もし世界を決定論的に描像すると、意識に自由はないということになる。これは大変魅力的で、恐ろしい。例えば私が怠惰を貪るのは、私のせいではなく、自然法則のせいなのであり、私はその不条理を受け入れなくてはいけない。しかし、非アルゴリズムの創発から、決定論は近似的にしか作用しないと導いた。それ故、命の終わりの存在を決定することはできても、その終わり方は自由であると言える。ではこの自由が、自由意志の存在を認めるかという、そうではない。我々の意識は自然の一部であり、自然と意識の両者は相互に作用しているため、まるで神のように、自然を操っているように感じる意志は自然により創発されているだけなのである。つまり、この自由とは、恣意的なことを意味せず、自由に意識が創発されることを意味する。
この自由には非アルゴリズムが多分に関わっているが、その役割に言及する前に、意識の働きについて言及する。
意識の自由は完全な自由を意味しない。その自由には方向性がある。それは、自由が決定論の近似を保つからである。どんな現象にも間接的に因果関係は存在し、ただ、その現象に非アルゴリズムが含まれるため、完璧なアルゴリズムの遂行にはならない。つまり、自由、または偶然は計算のズレから生じていることになる。
例えば、我々の無意識はアルゴリズム的である。それは、遺伝的、生理的、学習的に創造されるアルゴリズムである。しかし、それらはアルゴリズム的に支配される反面、そこには絶えず自由が存在する。例えばカレーを食べたいという欲求は、カレーが好物であったり、カレーの情報が暗示されていたりといったアルゴリズムを抱えていても、それが生み出された現象自体には偶然性が関わっている。また、その欲求を叶えるための行為全てにも偶然性が関わっている。そのため、我々がカレーを食べるという行為は自由である。
思考もこれと同じで、思考はこれまで培ってきたアルゴリズムと非アルゴリズムのハーモニーであり、それ自体には一定のアルゴリズム的方向性はあれど、その発生、そして行く末には多分に偶然性が備わっている。

意識の創発

意識は人間だけのものではない。その創発には、ただ条件があるだけだ。それは非アルゴリズムとアルゴリズムの保存である。例えば、人工知能には非アルゴリズムはほとんどといって存在しない。何かを学習するにしても、本人の能力の外にある偶然性に頼らなければならない。人工知能が生き生きとしていないのは、本人が生み出す偶然性が本能に備わっていないゆえである。これと対極的に箱に閉じこめられた蒸気に非アルゴリズムは多分にあれど、それを保存するアルゴリズムはない。同様に、竜巻も、竜巻が生む非アルゴリズムを保存するアルゴリズムはない。本人が自己を自己として保存しない以上、そこに意識の系は創発しない。意識というものは、外部から守られるように、アルゴリズムと非アルゴリズムが系を創発するところに生まれる。
人工意識の創造に足りないのは、非アルゴリズムの能力である。例えば、アインシュタインの脳の情報をすべて書き記した辞書があってもそこに意識はない。抽象的な表現ではあるが、意識というものは、情報という線や点というものが生まれるハブにある。このハブから生まれてくる情報を書き連ねても、ハブの存在がなければ、その情報は躍動しない。意識は情報には宿らないのである。


意識の進化論

我々の意識は進化の過程でいかに優位に働いたかである。意識には自由があると先に述べたが、それは、多分な非アルゴリズムを獲得し他の非アルゴリズムを圧倒したためにうまれた自由である。
実在の観測にて、非アルゴリズムの優位支配に言及したが、これを自然淘汰に当てはめると、意識における非アルゴリズムの優位性が見えてくる。例えば単純な動きをする生物は捕食されやすい。決まった習性をもつ動物は、その習性を理解する動物に支配される。プランクトンは鯨に捕食され、我々人間は植物や家畜の非アルゴリズムを制御することで安定的に食料を得る。そして、我々の非アルゴリズムは大自然が抱える非アルゴリズムに及ばない。故に我々は自然に支配されている。支配するためには、我々が今以上の非アルゴリズムを抱え、自然を上回らなければならない。文明文化がそれを局所的に担うのである。


内的非アルゴリズムと外的非アルゴリズム

投げられたボールが抱える非アルゴリズムとバットにヒットした瞬間生まれる非アルゴリズムは、レベルの異なる非アルゴリズムを抱える。ボールにある非アルゴリズムはボールがボールであるための範囲で非アルゴリズムを獲得する。それはボールに含まれるアルゴリズムに非アルゴリズムが依存するためである。これを内的非アルゴリズムとする。一方バットとボールがヒットする現象はバットとボールがそれぞれのアルゴリズムを遂行するために生まれる非アルゴリズムで、この両者のアルゴリズムに決定論としての因果関係はない。非アルゴリズムの創発で、二つに分かれた対称的な系は、時間発展と共に両者、異なる顔を持つと言及したが、ボールとバットが同一系として運命を共にしていたのは、はるか昔の異なる姿での話であり、今彼らに共通のアルゴリズムは野球のルールしか存在しない。同一レベルの同一系にない両者が生み出す非アルゴリズムを外的非アルゴリズムとする。
この内外の要素を、非アルゴリズムの優位支配に当てはめると、例えば闘牛の抱える内的非アルゴリズムは多大だが、外的非アルゴリズムは少ないため、闘牛自体をアルゴリズムとして、闘牛士は容易く扱える、つまり非アルゴリズム的に優位であるといえる。また、バットに当たったボールがバットをへし折り、直進した場合、バットからすれば、ボールの存在は己の存在を保てないほどの外的非アルゴリズムであったといえる。ここから、非アルゴリズムの優位支配の基準にはエネルギーの値も関わることがいえる。


系の支配

砂場の砂粒をいくらとると、砂場は砂場でなくなるのだろうか。川の存在はどこにあり、10年前の私と今日の私は同じ私なのだろうか。意識の進化論にて、非アルゴリズムの優位支配について言及したそれが、ここに応用できる。存在の系とその存在に作用する系の非アルゴリズム的優位がこれを決定する。
砂場場が抱える系と砂場を砂場で無くす作用の非アルゴリズムを考える。砂場に服吹く風が弱ければ、砂場の系は、非アルゴリズム的に優位であるので、風をものともしない。弱い風は自己の抱える非アルゴリズムが頼りないので、時間発展に己の非アルゴリズムの増大を頼らなければならない。次にもし砂場に吹く風が、吹いた砂を元の場所に戻す作用をした場合だが、これは、風が風の作用を打ち消しているので砂場は支配されない。次にもし、風と砂場の非アルゴリズムが同じである場合だが、これはただ両者拮抗するだけである。最後に風が砂場の非アルゴリズムを上回った場合だが、この時砂場は砂場としての存在を風の非アルゴリズムの意のまま存在としての自由を失う。
川の存在であるが、川は流れの作用という点で大きな系を抱える。我々人間はダムや堤防を建設することによって、川の自由度を支配しようとするのであるが、自然の非アルゴリズムは、時に急激に増大し、我々の支配を超越する。この時、我々が川に与えた存在は変化する。次に、川の成分としての存在である。川を川として、呼んだ時のその瞬間の川の成分配置と次の瞬間の成分配置は違う。では、これで川の存在は変化するのだろうか。これは非アルゴリズム的作用が内的であるので、その内的な非アルゴリズムが川という系を壊さない限り、川は川であるということができる。つまり、ここで比較される非アルゴリズムは、川が抱えるアルゴリズムとその中に生まれる非アルゴリズム優位性である。両者とも両者にとっては非アルゴリズムとして相対的に働く。相対的とはつまり、川のアルゴリズムから見れば、それが創発した非アルゴリズムは非アルゴリズムであり、創発された非アルゴリズムから見れば、川のアルゴリズムは非アルゴリズムであるということである。
10年前の私と今の私の存在であるが、体という系に対し、体から崩壊していく系と体が創造する系の相対的な非アルゴリズムのレベルによって、存在を決定できる。体が創造する系より、崩壊する系のレベルが大きい場合、また崩壊する系が体の系を上回る場合、人は死を迎える。この逆は成長である。砂場や川と同じでものである。ではテセウスの船のように、体から排出された成分を組み立てると、もう一人の私が出来上がるかという存在問題であるが、量子複製不可能定理以外の解決を非アルゴリズムに求めることができる。時間の矢でも触れたが、時間発展の運動には必ず非アルゴリズムが創発する。つまり、体から排出される成分を組み合わせても、元の体を創造するアルゴリズムにズレが生じるのである。そこで創造された人間は本質的に系が異なる別人である。もし、時間の矢を逆にして、10年前の私を創造できたとして、その時、現在という時間は崩れているので、現在の私は存在しない。テセウスの船の場合も同じで、テセウスの船の修理する原因となった原型パーツの崩壊という非アルゴリズムを考慮すれば、崩れたパーツを組み立てても、アルゴリズム的にテセウスの船は再現されない。つまり、この問題は時間の矢の対称性の破れから導かれる結論である。


脳の系

ベンジャミン・リベットの、体性感覚皮質の一点に電極を設置し、皮膚の刺激との関係性を調べた実験。そして脳磁器刺激法の人工の盲点の実験に見られる現象について、脳が一つの系であることから、これらを説明することを試みる。
脳は一つの系を維持している。この系が破壊されると、意識は保存できない。この保存能力において、リベットの実験は興味深い。皮膚に刺激を与えた0.25秒後に皮質に刺激を与えた場合、皮膚の刺激は全く感じられないというのだ。さらに、皮質刺激のあとその刺激が始まり、0.5秒を超えないうちに皮膚を刺激すると、どちらの刺激も感じられる上で、皮膚刺激が初めに起こったと感じるというのだ。大変奇妙な結果である。しかし、皮膚の系は肉体の系であり、皮質の系は脳の系であることを考えれば、記憶保存の系も脳に存在するので、脳の系を刺激することで、記憶能力に誤差を生じさせることができたといえる。つまり、皮膚の刺激がキャンセルされた状態というのは、皮膚の刺激が保存される前に、脳の保存系がダメージを受けたために、保存が適切に行えなかったということである。刺激を受ける前の皮質の局所的な意識がAで受けた後の意識がBであるとすると、この意識の違いは刺激という外部系からもたらされた非アルゴリズムにより、脳の系が局所的に状態変化したことを示す。これは局所的な脳の系が、外部の非アルゴリズムを支配する優位があったために新たに自己を創発したといえる。そして、意識がAからBに変化するうちに皮膚の刺激を保存するタイミングが訪れてしまったために、皮膚の刺激を感じることができなかったというわけである。このタイミングは実験結果から見るに0.5秒後であろう。ちなみに、皮質への刺激も0.5秒後に感じられるわけであるから、脳が自己の系を変化させ、自己の保存機能の体制を整えるのには、やはり0.5秒かかるようである。次に、皮質の刺激より皮膚の刺激を先に感じた現象であるが、意識に保存されるタイミングが0.5秒後であることを考えれば、脳の系が自己の系への刺激を感じ取るレベルまで系が創発されるのに0.5秒かかるので、つまり、脳が自分のことを自分と認識した時に自己の刺激に気付き、そのあとすぐ、皮膚の刺激を保存するタイミングがやってくるので、皮膚の刺激が0.5秒前にやってきたことを感じ取る。ただその0.5秒前に脳は自分を見失っているので、皮膚の刺激を予想できても、自己の刺激に気が付かない、それ故、皮膚の刺激を先に感じるのである。脳が自己を見失っている時、皮膚の刺激がどこにあるかは考察の余地がある。
人工の盲点もこれと似ている。視覚野に対して刺激を行うと、視覚にある場所に盲点ができるわけだが、脳の系が自己に盲点が存在したことを知覚する前に、刺激をやめてしまえば、脳は盲点に気が付かないわけである。そして、この刺激は脳の系に対する刺激なので、0.5秒後に保存のタイミングが来るわけではなく、ただ、刺激を受けた脳の系が新たに創発した時にその刺激がなければその刺激を感じない。実験は、刺激前、にスクリーン上に赤を映し、0.2秒刺激中に何も映さず、そして刺激後に緑を映す。人工の盲点として存在していた箇所は意識からするとそもそも存在していないので、代わりにそこに緑を投影する。脳は存在しない記憶を創造することによって、意識の辻褄を合わせるのである。
これらの実験の中でもう一つ奇妙なことは、意識が遅れているという点である。この奇妙な点を考えると、脳は、無意識が先行するのではないか、ということが考えられる。これは、脳が学習というアルゴリズムを創造することで、感覚的に現象に対処できるすぐれた機能を示していると言える。例えば、なめらかな会話をしている時、そこには、学習の成果が現れる。それ故に、私たちは、意識の保存が多少遅れたとしても、会話ができる。この学習というアルゴリズムにも非アルゴリズム的要素は多分にあるのだが、我々の意識の存在はもっと面白いだろう。会話は無意識が土台になるが、そこに意識が存在する訳は思考という要素があるからだ。つまり、アルゴリズムの遂行を行いながら、思考という非アルゴリズム的働きを行うことで、アルゴリズムを何度でも再構築する、学習の披露と学習の再学習が行われているのである。もし、我々に意識の遅れが存在しなければアルゴリズムの遂行に対し、意識が一々反応して、学習の披露のためのなめらかな会話はぎくしゃくしてしまうだろう。


クオリアの感触

自然の中にある共通性をいかに見つけるか、それが我々の意識の指向性に大きく関わっているのだろう。例えば、食事をとるためには外の世界を理解しないと行けないし、仲間を見つけるためには、仲間というものを理解しなけらばならない。赤い花の赤というアルゴリズム、花という言うアルゴリズム、そして赤い花という言葉のアルゴリズム。これらのアルゴリズムを我々はアルゴリズムとして理解していないだろう。言語を話すときに文法を意識しないように、我々はこのアルゴリズムを感覚的にとらえている。これをクオリアの感触としよう。
では、我々はクオリアの感触をどう感じ取っているのか。もしプラトン的世界を考えると我々のクオリアのは全て近似的なものである。そして、我々はその近似の精度を上げることが、プラトン世界に近づくことだと考える。それを美と呼ぶと、我々は美の感触を永遠に追っているのだろう。πの真の値を求めるように、実在する我々は永遠を想っても、それを叶えることはできないのである。クオリアの感触は法則の輪郭を我々非アルゴリズム的実在が捉えたときに感じるものである。
意識の創発に必要なのはこのクオリアの輪郭を捉える作用である。その作用は大変非アルゴリズム的であろう。未知のクオリアがあるとして、我々はそのクオリアの中で非アルゴリズムを増殖させる。すると、偶然それら非アルゴリズムの一部がその輪郭を捉えてしまうのである。ただ、それはそこにクオリアが元々あったというよりは、非アルゴリズムが見せたその瞬間の姿が、何か意味ありげに見えたり、他のクオリアの形と似ていたりするのだろう。例えば、それは不思議な作品にプラトン世界的共通性を発見しているようで創造するようなものである。これは文化を自然法則のシンプルなアルゴリズムで見ると非経済的に見えてしまう原因となっている。しかし、我々はこの文化を通して、膨大な非アルゴリズムを獲得し、他の非アルゴリズムに支配されないように進化してきたともいえるのである。これは何かの法則に従うというよりは、いかに法則を大きく活用するかの、イメージの力である。何か意味ありげに見えた、捉えたその感触、イメージが我々の文明を発展させてきたのである。
意識とは、雲をみて、それを見ぬ、その感触である



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I still have to think about it...