【短編小説】 肖像
卓上の蛍光灯は部屋を照らした。ただ前を向いていた。
父は何も言わず、部屋に侵入した。
ベッドに腰を下ろした。軋む音から知る。
暫く沈黙があった。
「調子どうだ?」と彼は言った。
背を向ける、沈黙でやり過ごした。
「頑張っているな」
父は立ち上がり、机の脇から一葉の写真を置いた。
後ろ姿、雪の日。微かに舞い降りるそれが全体の画面を構成する。頼りなく歩く少年。幼児と言ってもいい。厚着で膨れ上がった体と、頭の上のニット帽。可愛げがあるボンボリ。
視界の端で見るとはなく見ていた。
「部屋掃除してたら出てきた」と彼は言った。
それがなんだ、と僕は思う。
「きれいだな」と彼は言う。
冬、やがて来る季節。その時はここにいたくない。
「明日、早いぞ」
声に苛つく。もう遅いと、思う。
手遅れだ。言葉が頭の中で螺旋する。
立ち上がる音。合図かのように、僕は深く息を吐く。感情が胸に充満する。逃げ道を探す塊。
「母さんのこと考えたことあった?」
彼は屹立している。
「最近お前と母さんが話してたところ、俺見たことなかったけど」
もう何も言わなくていい、何かが変わることはない。
この声は届かない。
「多くを話す夫婦ではなかった」
言葉を部屋に置き、彼はドアを閉めた。
高校を辞めたのは自分の意思だった。
僕は舞台を降りた。彼女はまだそこで戦っていた。あれから笑顔が増えたと思う。わざとらしく笑う声がこちらまで届く。彼女は自分を憎んでいるだろうか。かつて僕らが話した言葉から、形作った彼女の姿。どこか超然として周囲から浮き上がる存在。誰にも染まらない表情。
そんな彼女が好きだった。
地に落ちたその人は馬鹿みたいに周囲に溶け込んでいた。廊下ですれ違う時、瞳さえ見なかった。背後で笑う声が聞こえた。何か言ったのだろう。
僕と彼女のツーショットが出回った。ホテルの部屋で、二人の上半身を写した画像。裸だが、彼女は布で胸元を隠していた。その後、写真を友人から見せられた。僕の顔は上気していた。快楽の予感と高揚感が窺えた。彼女は澄ました顔で、口角を僅かに上げていた。
その日、「お前の画像でオナニーしたわ」とクラスメイトが言った。普段、決して僕に話しかけない奴だった。それを許さぬ地位にいたはずだった。僕は力なく笑った。言葉は返さなかった。
その後、歩き出す気力はなく、やがて来る未来に何も託さなかった。写真は勿論、彼女が出所だった。それ以外考えられない。何もかもが嘘だった。どれだけ考えても人の気持ちが分からなかった。
「終わったな」と彼は言う。四十九日の法要。親戚連中は足早に帰っていく。久しぶりに制服に袖を通した。不思議なことに安心した。母は額の中で笑っていた。終わった。
もう忘れられる?触れることはもうない。
「お前の声だった。ミツグは子供の時からよく笑う子供だった。あの時もキャッキャッと高い声でどんどん前に進んでいった。それを父さん思い出した、」
過去だった。
「母さんスマホ持つの遅かったけど、それからはよく話した。毎日写真、送りあってな。柄にもなく夕日を何枚も撮った。シオリは花が好きだった、」
お茶に口をつける。窓から日が射す。
「母さん笑ってるな。澄ましてるな。記憶とは、ちょっと違うが。シオリだったな、きっと。もう苦しまなくていいって笑ってるな、」
父は正面から僕を見た。
「大丈夫だ。まだ力はある」
前方は暗かった。語りかける人は今、この人以外いなかった。
「いつでも母さんに言え。何でも聞いてくれるから」
何も分からなかった。
立ち上がり、父は仏壇をスマホで撮った。その後、台所からの振動音を僕らは聞いた。
そんな1日だった。