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死ぬかもしれないから、言っておきたいこと。

ガン患者になってちょうど一年がたつ。
この一年はまさに激動だった、充実していたともいえるのであっという間に過ぎたようにも感じた。このペースで進んだらあっというまに人生が終わってしまいそうだ。

去年とおなじように今年も病院でクリスマスと年末年始も過ごすことになった、じつは肺炎で入院している。肺炎ってはじめてなったけどけっこうヤバい。

いつもの仮病とは明らかにちがう様子に妻が異変を感じ、大学病院まで連れてきてくれた。検査をするとCRPというよくわからない数値が49(4.9じゃないよ49)というハイスコアを出していた。

さきにいっておくけど肺炎球菌って日本中のどこにでもある菌だから、ネパールがどうとか関係ないからね。ネパールは感染性胃腸炎、つまり下痢と嘔吐の方が怖い。菌が恐ければ滅菌室に引きこもっていればいいのだけど、人生なかなかそうもいかない。

帰宅まぎわの担当医がきてくれて、このまま死ぬ可能性がじゅうぶんあること、そしてもしもの場合、心臓マッサージと人工呼吸器を使用するか質問された、もちろんどちらも断った。

ただ肺炎で亡くなるのは苦しい、意識があるのに呼吸ができなくなるのはつらい。
もしものときはセデーション(鎮静死)はできますか?とこちらから質問すると概ねいい答えが返ってきたので安心をした。

苦しんで死ぬというパターンも、助からないのに延命治療で生かされるというパターンも避けられる。そしてその両方のパターンを妻と子どもに見せなくて済む。
医師と患者がこのやりとりができたことが、ぼくはとても良いとだとおもった。
医師がおなじ質問を家族にしてしまうと、こうはならない。

妻はぼくの意見を尊重してくれるけど、妻やぼくの親族などが外野席から妻にアドバイスというなの野次を飛ばす。アメリカでは“シカゴの娘”といった言い回しで、遠方の親戚が急に大きな声で治療に口を出す行為がある。これは日本だけではないのだ。

患者が望む最後と、家族が望む最後は違う。
患者は苦しみたくないが、家族は悲しみたくないのだ、意見が一致するわけない。

そして医師が尊重するのは、家族が望む最後なのだ。
野次に負けた妻が人工呼吸器を使って延命してほしいといったり、心臓マッサージを希望すれば、医師はやる。なぜ医師がそれをやるかというと、それが医師の望む最後だからだ。

そして鎮静死、セデーションは医師の裁量で行うものなので患者が希望しようが関係ない。

患者の意見が尊重されない仕組みになっている、それが日本の医療の現実だ。

誤解しないでほしいのだけど、医師や家族だけが悪いわけじゃない。
意思表示を明確にしない患者も悪いのだ。
だから“家族でちゃんと話し合ってね。”と国はアピールする。

相手の意思がよめないから、お互いがお互いの首を優しく、うかがいつつ絞めあっているのだ。ぼくも最近になって知ったことだから、偉そうなことは言えないのだけど、チキンレースのような茶番が正しいとは思わない。

ぼくは今年の2月から安楽死のことを調べはじめた。
取材対象者や応援してくれる人を含めて、たくさんの人たちに出会った。
NHKのディレクター大島さんもその一人だ。抗ガン剤治療を始めてた半年前からぼくを一人で密着取材してくれている。

“好きな人の写真を撮る。”とぼくはよくいっているが、一緒にいる時間が長かったのか、大島さんの写真が多い、息子も大島さんのことが好きだ。ここ5年で大島さんが死んだら、ぼくが撮影した写真を遺影に使ってくれるんだって、うれしいよね。

去年、大島さんの父親は肺ガンで、ぼくがいま入院している病院で亡くなっている。呼吸ができなくなり苦しむ親を目の前で見ているのだ。

このタイミングでかよ!って感じですが明日その密着取材の様子が放送されます。

みどころは意外と高い声と、半年間で体重が15kg増えたところです。
体重に関しては薬の副作用だといい張っていましたが、ネパールに行ってわかったことは、たぶん食べ過ぎです。声に関してはぼくも最近知ったことです。

ライザップに通って痩せようと医師に相談したら、多発性骨髄腫の患者がやったら骨が折れるからダメだと言われました、たしかに。

ハートネットTV「がんになって分かったこと~写真家 幡野広志 35歳~」

安楽死は患者が自分の意思を尊重させることができる手段だ。
これが日本では違法なのだ。

7月に川崎のしゃれたお寺で安楽死のことについて公開議論をした。
この公開議論とは別に何度も何度も、いろんな人と何度も議論してきた。
つまり反対する人も当然一定数いるのだ。なかには涙を流しながら反対する人も、憎むようにぼくを睨みにながら反対する人もいた。

安楽死のことが話題になると、賛成と反対の議論に陥りがちだ。
反対する人がどんな人たちかというと、まずは医師が多い。
そしてこれはとてもに言いにくいのだけど、ぼくが肌で感じたなかで一番強く反対するのは、家族や大切な人をトラウマや後悔を抱えるかたちで、ガンなどで亡くしてしまった一部の人だ。

この両者の話を聞いて、いい批判も聞くこともたくさんあるのだけど、じつはこの反対する人たちと議論をしてもあまり意味はないのだ。

なぜなら“安楽死”という言葉を想像したとき、賛成する人は自分の命に置き換えて、自分だったら苦しみたくないなぁと、必要性を感じて賛成をする。
反対する人は“安楽死”という言葉で、家族や患者の命で想像するから、死なせたくないという気持ちで反対するのだ。

自分の命と、他人の命。
全く価値の違う目で見ているのだから、議論になりにくく、説得に近くなってしまう。

患者の希望、家族の希望、医師の希望、医療現場で起こっていることと一緒なのだ。だから安楽死の議論が賛成や反対で熟すことも噛み合うこともない。

賛成か反対かという議論ではなく、すこし考え方を変えて。
自分にとって必要か不必要かという選択肢で考えた方がいいのではないだろうか。
必要な人は選べばいい、不必要な人は選ばなければいい、ただそれだけのことだ。

“周囲の目を気にして、安楽死を選んじゃう人が出てくるのはないか。”
こう反論する人が多かった。

それが嫌なら自分の大切な人に、人の目を気にしない生き方を教えてあげてください。ぼくは自分の子どもにそれを教えているつもりだ。
日本で安楽死が実現するのはどんなに早くても、10年以上先のことだ。

人の目を気にして死ぬ人は、人の目を気にして生きている人だ。
死に方を考えることは、生き方を考えることと一緒なんだ。
これから10年で生き方を考えよう。

世界のいくつかの国と州で安楽死は認められている、認められた経緯が少し興味深い。政治家が主張したわけではなく、患者がきっかけで社会的な要求や認識が高まり法制化されている。

日本で健康な政治家や医師が安楽死のことを公に口にすればどうなるか、容易に想像がつく。ガン患者になってわかったことだが、安楽死という選択肢とあると生きやすくなる。

最後に苦しまなくていい、肺炎を乗り越えてあと数年生きても、ガンで苦しむ姿をお父さんの記憶として少年になった息子には残したくない。
だからぼくはスイスの安楽死協会の会員になっている。

生きる権利は誰にでもあり、保証されている。
死ぬ権利を持つと、びっくりするほど生きやすくなる。
生きる権利を、生きる義務にされてしまうと病気になったとき果たせないので、苦しくなるのだ。

そして死ぬことは悪いことではない。
死ぬことを悪いこととしていたら、人類全員バッドエンドだ。
自分の望む死をハッピーエンドにして、目指しましょうよ。

クリスマスプレゼントに妻が息子の手足でサンタの絵を描いてくれた。
病室の壁に貼って、点滴チューブの繋がった手を息子の手にあわせたりしている。

いまは肺炎を治して自宅に帰りたい、
ぼくだってけっして死にたいわけじゃないのだ。




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