丑雄の由来

 最近また名前の由来を訊かれることが多くなった。これについてはデビュー時の「受賞のことば」で書いたので再掲しておく。今読んでみると気負いのある、そのわりにことばの足りない文章である。しかしデビューというのはそういうものである。文章をなおすのも当時の自分にしのびない気がしてそのままにしておく。

 牛になることはどうしても必要です、と漱石は言いました。火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません、とも。
 若い頃の芥川への手紙です。お気に入りの文章なので全部引用したいのですが、そうもいかないので、かいつまんで説明すると、あせらずこつこついきなさい、ということです(違うかもしれません)。
 これが私が丑雄という名前を選んだ理由です。 
 誰かに与えられたのではない名前というのは、とても不思議な感じがするものです。ほんとのところを言うと、この名前でよかったんだろうかとも、まだ少し思ったりもします。でももう手遅れです。名前は名付けられた時点で、名付け親の手を完全に離れるのです。あとは後ろから押していくことしかできません。名前とは、ことばとは、そしておそらく物語とはきっとそういうものなのだと思います。けして追い越したり、先で待ち構えたりしてはいけません。うんうん死ぬまで押すしかないのです。牛のように超然として押して行くのです。

 要するに「丑雄」という名前は私が私自身にかけた呪い(鈍い)である。拙い文章であるが、何を言いたかったのかはよくわかる。鋭さを譲ろう。迅さを譲ろう。しかし鈍さだけは譲ってはならない——当時の私はそんな風に思っていた。今も思っている。かつての私のことばに、今も私は背中を押されている。


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