式のことなど
どこの家も似たようなものかもしれないが、父は私が幼い頃しばしば本当かどうかよくわからない嘘をついた。よく家に来ていたお客さんを指して「この人は椅子どろぼうだよ」と言ったり、井上陽水が流れていると「この人は高校の同級生」と言ったり、テレビの大ずもうを見ながら「世の中には大ずもうの他に表の世界には出てこない『黒ずもう』という集団がいて、彼らは一様に黒いまわしを締めている」と言ったり、簡単なものから作り込んだものまで大小さまざまな嘘をついたが、どれも全く意味のない嘘であった。今でもよく覚えているのだが、どこか南の方でうねるように根を張っている樹を見た際、父は「地球には重力が強くなったり弱くなったりする場所があって、重力の弱くなる場所では樹はこの惑星の回転から振り落とされないように普通よりも深く根を張ろうとするのだ」と滔々と説明した。私はそもそもこの惑星から振り落とされる樹というものをうまく想像することができなかった。もしそんなことがあったとして、その樹は寄る辺ない宇宙のどこへ向かうのだろうか?
私と妻は昨年から茨木に住み始めた。茨木は互いに縁も所縁もない土地で、この土地を選んだのは単に互いの職場からの距離の問題で、偶然である。しかしともかくも我々は茨木に新しい戸籍をつくった。それまでは私の戸籍は父の実家があった石巻にあったことは前にも書いたことがある。
籍を入れた後は結婚式をすることになった。式をするかしないかで紆余曲折もあったが、ともかくもすることになった。式を行うとして、まず突き当たるのが式場の問題である。式場が多すぎるのだ。我々は式場を選ぶにあたり、「披露宴会場から鴨川が見えること」という条件を付けた。鴨川が我々の学生時代の共通の思い出の場であったこともさることながら、そうでもしなければ数が絞れなかったためでもある。
学生時代の共通の思い出の場、と言ったが厳密には我々はそこで同じ時を過ごしたのではなかった。我々は大学も学部も学年も同じだったが、在学中は互いの存在を知らなかった。これは主に私がサッカー部の活動にかまけて、授業に出ていなかったためである。ちなみに私はサッカー部を4年生で引退した後も授業に出なかった。サッカー部は卒業式の日に4年生の胴上げが時計台前のクスノキのそばで行われるのだが、私は4年生を4回したので今日に至るまで唯一の計4回宙を舞った部員であるらしい。しかしこれはまた別の話である。ともかくも我々は披露宴会場から鴨川の見える式場を選んだ。
式場選びの次に問題になるのは招待客の選定である。私の招待客は高校・大学サッカー部の同期と先輩・後輩、そしてその家族+大学時代の恩師+親族で、妻の招待客ともバランスがとれていたのだが、ここで問題が生じた。両親の祖父母が誰も来られないというのである。母方はそれぞれ祖母が認知症で、祖父は施設に入っているから来られない——これは仕方のないことである。また半ば予期していたことでもある。しかし父方の祖母(祖父はもう死んでいる)が来られないのは何故かと訊くと、祖母はすでに末期がんであるという。ちょうど我々から式の話が出る少し前に施設から連絡があって、両親としてもいつ切り出すか考えていたらしい。その話を聞いたのは2月15日で、我々の結婚式は9月で、祖母の余命は1か月で、確かにそれでは間に合わない。
私が妻と共に祖母の見舞いに石巻を訪れたのは2月24日のことである。朝いちばんの飛行機で仙台に降り、昼前に石巻についてからも祖母との面会時間までわりに時間があったので、我々は車で駅に迎えに来てくれた叔母さんと、かつて実家があった渡波に向かった。渡波の家は海から数十メートルのところにあったため、東日本大震災では津波で半壊し、すでに取り壊されていたが、せっかくだからその跡地で妻と私と叔母で記念写真を撮ろうと考えたのである。しかし結論から言えば我々は跡地を突き止めることができなかった。かつて私の戸籍を置いていたエリアでは巨大な防波堤の建設と区画整理があり、すっかり景色が変わっていたからである。私と叔母は、互いに「この辺だった気がする」と別の場所を指し、妻はそもそも実家を知らなかったので判定ができなかった。仕方なく我々は2つの跡地候補で写真を撮った。スマホに残っている写真を見ると、1枚は内燃機工場横の白いフェンスで区切られたコンクリートの敷地の前で、もう1枚は枯れ草の上にまばらに雪が溶け残った誰かの家の庭の前で、どちらの写真でも夫婦はピースサインを掲げている。背にしている土地があくまで確率的な実家の跡地にすぎないこともあって、私の表情からも妻の表情からも何らかの感慨を読み取ることは難しい。むしろ妻の表情は困惑に近い。
万石浦に面した幸町では人口の8%にあたる20人が震災で死亡している。祖母は津波が来ると2階に避難したが、それでも腰までは海に浸かったという。両隣の家は津波で亡くなっているから、祖母が生き残ったのは運が良かったのである。幸町では20人だったが渡波では230人、石巻市全体では死者と行方不明者は3500人以上にのぼる。震災から間もなくこのあたりを歩いた時はまだ打ち上げられた瓦礫や小型漁船が残っていたが、今では道路は整然と舗装されている。何となく昔より磯臭さも弱まった気さえする。
祖母は吉野町にある介護老人保健施設に入っていた。私は以前ケースワーカーをしていたので老健施設もそれなりの数を見たことがあったが、施設というものは行き慣れてくると居酒屋や本屋のように初見でもある程度当たりはずれの判別がつくようになってくる。祖母の入っている施設は「当たり」だった。清潔で受付職員の対応も良かったし、他の入所者の服も汚れておらず、レクもしっかり行われていて、何より空気が淀んでいなかった。祖母は陽当たりのいい個室に入っていた。ここに来る前に叔母からは「ちょっとにおいがするかもしれない」と言われていたが、消毒液の匂いのせいか、マスクをしているせいか、ベッドに仰向けになっている祖母の傍まで行ってもよくわからなかった。祖母は私の記憶にある姿よりもずいぶん痩せて、白髪が増えていた。オールバックに近い髪型のせいで、丸く張り出したかたちのいい額と村山首相のように伸びた眉毛が強調され、「老人のようだ」と思ったことをよく覚えている。考えてみると不思議であるが、それまで私は祖母のことを老人だと思ったことがなかった。膝を悪くして車いすに乗っている姿も見ていたが、祖母の声にはいつも聴く者に決して内面というものを感じさせない完璧な張りと晴れやかさがあったから、気がつかずにいたのである。「明るくておしゃべり好きだった」と葬儀では皆ためらいのない定型句で祖母を偲んでいたが、実際祖母は震災後の仮設住宅でも驚くほどの節操のなさで友達をつくり、お互いの白い小さな箱のような家を行き来していた。もともと家のあった幸町に戻りたくはないかと訊いても、今はこっちで友達ができてしまったからここに居続けたいというのが祖母の答えだった。祖母は風で種子が運ばれる植物のようにきっとどこへ行っても根を張ることができたのだろう。あるいは内心は別のことを考えていたのかもしれないが、私は今まで祖母が何を考えているのか考えたことがなかった。祖母の声や身振りがそのまま祖母だった。私は祖母の石巻弁をいつも半分くらいしか聞き取れなかった。思い出してみると、私は祖母の来歴についてもまるで知らなかった。知っていたのは祖母は渡波の出身ではなくどこかから祖父のもとに嫁いできたことと、運動が得意で短距離で東北大会の記録を持っていたことぐらいである。年齢も誕生日も知らなかった。今でも知らない。けれどもそれで不都合があったこともない。
しかしその日の祖母は声がほとんど出なかった。からだも自由に動かすことができず、職員にリクライニングの角度をあげてもらい、我々が顔を近づけることで、ようやく祖母の声が微かに聞き取れた。意識ははっきりしているらしかった。細い瞳に溜まった強い光はかつての祖母のままだった。瞳を見れば喋りたいことがまだたくさんあるのは明らかだった。祖母は身の内に残った力を集め、時間をかけて短いことばを何度か呟いた。「元気でね」と祖母は言った。また「夫婦で仲良くしてね」とも言った。こうして文章に起こしてみると、ずいぶん型通りでドラマの適当なセリフのようでもあるが、祖母は実際にそう言ったのだった。初めのうち、私は祖母が本当はもっと何を言いたいのだろうかと考えていたが、やがてその考えが礼を失していることに気づいた。祖母は今力を振り絞って、本当に言いたいことを言っているのだ。私は妻とともに結婚指輪を見せ、12月に籍を入れたこと、9月に結婚式を行うのでおばあちゃんにもぜひ参列してほしいことを説明した。祖母はやはり時間をかけて頷き、「ありがとう」と言った。無論私も妻も祖母が式に来られるとは思っていなかった。たぶん祖母も思っていなかったろう。だから私の言ったことは嘘だった。しかしその嘘を言わなければならないと思ったのは、これは嘘ではなかった。たぶん祖母もそう思ってくれただろう。そう思ってくれたと私が思うことを赦してくれただろう。これも礼の問題と言えばそれまでである。
施設の面会時間が終わると私は車で5分ほどの距離にある石巻南浜津波復興記念公園に向かった。本当は門脇小学校の遺構にも行きたかったが、「あそこはまだこわいからいやだ」と叔母は言った。津波復興記念公園については存在を知らず、私がスマホでナビをする間「ほんとにそんなのあんのかしら」と半信半疑だった。公園はうっすらと雪が積もっていて、人気がないのと夕方近くなってきたのと敷地が広大なのとでだいぶ寒かった。「私は寒いからいいよ」という叔母を車に待たせたまま、私と妻は追悼の広場、津波伝承館、一丁目の丘を順番に回った。伝承館はガラス張りの瀟洒な外観で、南の海側から北側に向かってなだらかな坂をあがるように円い屋根が傾斜している。北端の高さは6メートルでこれはこの地を襲った津波と同じ高さであるという。中に入ると展示物はそれほど多くはなかった。意外に感じたのが、想像していたよりも震災の教訓が強調されていたことである。特に気になったのはシアターで流されていた「くり返さないために」という動画である。タイトルを見たとき、私は主語と目的語は何だろうかと考えた。主語は今回の震災を体験していないものまで含んだ、広い意味での生存者であろう。死んだ者にはそもそも何かを繰り返すことも繰り返さないこともできない。目的語は何だろうか。地震や津波でないことは確かである。まだ人類の技術では地震や津波そのものを抑え込むことはできない。それらはまだ天災である。だとすれば、必然的に目的語は、防災体制の不備や日常の啓発の不徹底、各局面での組織・個人の判断ミス等々の過失部分≒人災部分だと推測される。後日県の津波伝承館案内ページを見たところ、「展示整備の概要」という箇所に「展示の目的は、東日本大震災と同じ悲しみと混乱を繰り返さないために」という記述があったから、おそらくはこれが正解なのだろう。教訓はたいせつなものである。しかし教訓は過去をよりよい未来を築くための素材としてしまう。それは良い悪いとは別に、そういうものである。行政からすれば当り前のことでもある。けれども何も死者はPDCAサイクルを回すために死んだのではない。よりよい未来を築くために死んだのではない。ただ死んだのである。教訓は死者たちの死に意味を与え、生き残った人々の視線を次に、前に移すことができる。生存した集団を精神的な傷から回復させるために有効な手段でもある。だから回復は忘れることでもある。忘れられるのは死者たちである。
施設から出た後、私と妻は一丁目の丘に登った。この丘はもともと石巻市立病院があった場所で、丘の上からは眼前の公園全体が見下ろせ、設置されている震災前の街並みの写真と見比べられるという趣向になっていた。理屈から言えばそこで街並みを一変させた津波の恐ろしさが感じられるはずだった。感じなければならないとも思った。しかし私はそれよりもだだっぴろい滑走路のような駐車場で一人待っている叔母のことが気になった。叔母は門脇小学校の遺構について「あそこはまだこわいからいやだ」と言った。叔母がこの丘の上に立てば何を感じるだろうかと私は思った。しかし遂に叔母は車から出てこなかった。
結婚式の終盤で新婦が両親への手紙を読む「花嫁の手紙」というものがある。あるのである。最近では新郎が両親へ手紙を読む「花婿の手紙」も定着しつつあるという。「花嫁の手紙」はよいとして「花婿の手紙」は進行上どうしても必要なのかと訊くと「みなさんやっておられることですから」とプランナーの田中(仮名)は言った。そもそもが式というのは世間に向けて行うものである。であればなにごともできるだけ世間に合わせた方がよい。それで私も「花婿の手紙」を読むことになった。しかしこれは書き上げるのに意外に苦労した。初めはネット上の文例を流用し、手紙の締めに「お父さん、お母さん、丑雄は今日、しあわせになります」などと書いていたが、これはやめにした。ふざけていると思われるか、そうでなければ気が触れたと思われかねないからである。以下手紙から両親へ向けた箇所を一部抜粋する。式に出た人には繰り返しなので読み飛ばしてもらってかまわない。
大学在学中、私の成績が恐るべき低空飛行を続けていたのは御列席の恩師二人を始め、御存知の方も多いかと思われますが、それは何も大学入学を機にそうなったのではなく、私は小、中、高とずっと学校の成績の悪い子どもでした。高校では本来留年の成績で、先生の恩情によって進級させてもらいました。受験を控えた時期の三者面談では、担任から「もっと志望校のランクを下げてください。現実を見てください」と指導されるのが常でした。しかしそんなとき、お父さん、あなたは決まって反論しました。反論の要旨はいつも「確かに成績は悪いが、この子にはすぐれた潜在能力がある。それは今はわからないがいつかわかるときがくる」というものでした。そのようなあなたのことばを聞き続け、次第に私も「そうか、俺は成績は悪いがすぐれた潜在能力があるのか」と思うようになりました。そして高校三年生の春、私は受験に失敗しました。しかしあなたはそれでも「落ちることは落ちたが、能力的には何の問題もない」と言い、あげくには「一年あるんだから冷静になって志望校のランクをあげたほうがいい」とまで言いだしました。お父さん、あなたから植え付けられた楽観主義は私という人間の底に根を張っています。たぶん今後も治らないでしょう。
お母さん、今でも私が覚えているのはその浪人時代のいわゆる「寿司事件」です。当時私はひとりカラオケにはまっていたのですが、その日は熱が入るあまり、過呼吸を起こし、店を出た後も呼吸が戻らず、近くのマクドナルドでコーラだけを頼んで突っ伏していました。手足が痺れ、意識が朦朧とする中、私は「死ぬかもしれない」と思いました。初めての過呼吸でパニックになっていたのです。気づけば私は母に連絡していました。母は当時父と共に京都でかなりいい寿司・いい酒を楽しんでいたのですが、すぐに大阪まで飛んできてくれました。私はそのときほど、お母さん、あなたの愛の深さを感じたことはありません。お父さん、あなたはそのまま京都で寿司を食べ続けていましたね。
しかしこの手紙には書かなかったことがある。幸い一年の浪人生活の末、私は第一志望に合格することができた。合格発表のあった当日、他の合格した浪人仲間たちとカラオケでオールし(過呼吸は起こさなかった)、そのまま朝から一人の友人の家でゲームをし、昼過ぎにサイゼリヤで飯を食べてようやく解散した。受験勉強から解放された浪人生として、ごく一般的な過ごし方だったろう。私は10代の終わりから20代の初めまでのごく限られた時期にのみ許された、夜を明かして遊んだ後の、あの多幸感を味わいながら友人たちと別れた。私は当時好きだったサンボマスターの4thアルバムを聴きながら帰路についた。平日の15時過ぎで、帰りの電車は空いていた。アルバムの12曲目の「新しい朝」がかかっているとき、北大阪急行の柔らかな緑のシートが、窓から差し込んできた光が当たっている部分だけが色が違って明るく見え、そんな日常の発見ともいえない出来事に、なぜだか私はひどく感動したのをよく覚えている。
そして家に帰ると父がリビングでテレビを見ていた。テレビには津波に呑み込まれた石巻が映っていた。吹田も揺れたはずだったが、音楽を聴きながら帰路についていた私はまったく気がつかなかった。それからのことは以前にも書いたことがある。以下はその引用である。
祖母は地震後の一週間ぐらいは連絡が取れず、我が家では誰も口にはしなかったがはっきり言ってみんな死んだものだと考えていた。日本のニュースでは詳細がわからず、海外のニュースやネットで死者と生存者の情報を追い、死体の写真があがっていれば、その顔が祖母のものでないか目を凝らした(わからない場合も多かった)。大学合格の直後で、当然いろいろなお誘いもあったが私は行かなかった。しかしずっと家にいたはずもなく、その一週間何をしていたかはあまり覚えていない。このときの私にまだ本を読む習慣はなかった。とにかく皆祖母が死んだものと考え、死体が出てくれれば幸い、ぐらいに考えていたことは覚えている。しかし祖母は生きていた。
「公民館の二階で寝させてもらってさ、こんな寝れるわけねえべ、って思ったの。そしたら一階がすんごいすずか(静か)で、みんなよっぐ寝れるもんだつって自分もぐっすり寝てさ、次の日降りたら一階はみなすたい(死体)なのよ。すんごいすずか(静か)に並んでさ、すんごいぐっすり眠れたの」
繰り返されるうち、微妙に細部が移ろっていく祖母の言のどこまでが誇張かはさておき、地震直後はやはり再び津波が来ることに備え、皆できるだけ高いところで寝て、一階に死体が搬入されることもあったそうである。深い眠りであったことはおそらく誇張ではないだろう。
震災が父の楽観主義にどのような影響を与えたのかは、実は私はよくわかっていない。震災後のどたばたがひと段落したころ、私は下宿のために家を出たからである。
ただこの頃から父は幾分酒が深くなった。たんに年相応に弱くなっただけかもしれない。たまに実家に帰った時、あまりに酔っ払って帰ってくるので母に叱られている姿も何度か見た。電車を乗り過ごしたり、前のめりに側溝に倒れて前歯を折ったこともあったようである。私は醜態をさらす父を見かねてだったか、それとも全く違う文脈だったのか、今はもう覚えていないが、母になぜ父と結婚したのか訊いたことがある。すると母は「なんでやろうねえ」と考え込んでしまった。しかしややあって「声がよかったからやね」と諦めたように言った。それ以上のことは聞いていない。
震災で私自身にどのような影響があったのかはわからない。その頃の一番の大きな変化としては本を読むようになったことである。それまでの私には活字を読む習慣はなかった。小中高とサッカー部だった私は、基本的には授業の後は毎日練習があり、土日には試合が入っていた。大学もサッカー部で毎日練習があり、土日には試合があったが、大学は授業に出ずともよかった。それで本を読む時間が生まれた。また文学部に入ったことも大きかった。と言ってブッキッシュな学友に恵まれたわけではない(入学して間もない頃「ドストエフスキーってだれ?」とのことばを二人のクラスメイトから聞いた)。また学校側からの圧があったわけでもない。むしろその逆で、私が在学していた頃はおそらく大学に(あるいは文学部に)徹底的な放任主義が残っていた最後の時代だったのだろう、私の恩師もそうだったが、多くの教員たちは爽やかな諦念と毅然とした寛容で学生に接し、課題を提出しろだの授業に出ろだの口うるさいことは言わなかった。あれこれやかましく言われていたらきっと私は本を読むことはなかったろう。要するに私が本を読むようになったのは環境の変化のためであって、時系列としては震災の直後であるが、そこに因果はなく二つの事象はあくまでパラレルなものである。
無論文章の上であればその平行線を交わらせることも可能である。フィクションとはそもそもそういうものだとの向きもあるだろう。実際当時は「死者たちが私をしてこの作品を書かしめた」といった類のSVO式の構文が乱造されていた。無論たいていは鎮魂の体をとっていたが、構造としては同じである。しかし多くの場合、それらは単なる主語の引き受けの拒否にすぎなかった。自らが使役されているかのように、他者を使役するのがよくないのは、そうすることで自らが免責されてしまうからである。免責された人の文章というのは、それがどれほど闊達自在に見えたとしても、よいものではない。請求先が自分ではないカードを切りまくっているのと同じで、はっきり言ってそんな人がいたらうらやましい。しかしうらやんだりねたんだりはまだいい方で、みながこのSVO式の構文を用いるとたいへんなことになる。要はモラルの問題である。私が震災と私の個人的な読み書きの遍歴をどこまでも分けて考えたいのはこのためである。
私は一回生の前期が終わると、授業に出なくなった。朝から夕方までは図書館か下宿で本を読んだり文章を書いたりし、夕方になれば部活に行くという生活を四年送った。当然サッカー部以外の人間とはほとんど会うことがなかったので、妻とも会わなかった。私はよく鴨川で酒を飲んだり、本を読んだり、川遊びをしたりして、それは妻も同じだったが、それぞれが違う岸辺にいたのである。
去年の春、安威川沿いには美しい桜が咲いた。私は妻と桜並木を歩きながら、かつて互いに鴨川で花見をした話をした。私はサッカー部の新歓で、妻は演劇サークルで花見をしていて、だからそのとき互いにすれちがうことぐらいはあったろう。しかし当時面識を持っていたらお互いが付き合うことはなかったろうという点で我々は合意している。私は今よりも体重こそ15キロ痩せていて、頭の回転もわりに速かったし、けっこう面白いことも考えていたが、どこまでいっても自分のおもちゃ箱で頭がいっぱいの子供だった。妻も妻で今よりだいぶきかん気だったようである。その頃の丑雄くんに会わなくてよかった、と妻は言う。ちなみに鴨川は桂川に注ぎ、桂川は淀川にそそぎ、安威川は淀川の河口で合流するので、安威川は鴨川とは繋がってはいない。
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に
咲け
父は祖母の葬儀でこの古今の歌を引用した。現実的には桜が墨染に咲くことはないので、これは無論修辞である。しかしそれはそのことばが直ちに別の何かを意味していることを意味しない。そのことばが対応する現実を持たず、別の意味も持たないとき、そのことばを支えるものは声しかない。あるいは声によってしか支えることのできないものだけが歌と呼ばれるにふさわしい。歌はそれが響いている間は一つの現実である。少なくとも父の声にはそう思わせるだけの響きがあった。
二人とも自分たちの若い時よりずいぶんしっかりしているから、別に心配はしていない、と父は結婚式の最後の挨拶でそう述べた。これは修辞ではなく、実際父は留年回数で言えば私より上で、結婚前にも、教師に就職が決まっていたのに突然プロレスの記者になりたいと言いだして、母に、もし記者になるなら、私は結婚しませんからね、と言われ、渋々諦めたこともあったらしい。しかし父によれば自身は畠山家の男では例外的に真面目なタイプで、だからこそ勤め人になれたのだという。実際父は葬式のときには親族を指さしながら、あれが○○の○○にあたる○○さん、といろいろ紹介してくれたが、たいていが漁師か、ぷらぷらしている人だった。父が祖父に教師になったことを報告したときも、勤め人か、と少しだけがっかりしたという。漁師だった祖父は常々父に、ネクタイを締めるような仕事についてはいかん、と言っていた。教師は祖父が許せるぎりぎりの職業だったのだろう。ほなおじいちゃんはほんまは何になってほしかったん、と訊くと、漁師か博徒、と父は言った。父はまた、畠山家の女は基本的にしゃんとしているが、男はふにゃふにゃしている、とも言った。男はいつしゃんとするのか、と訊くと、海に出るときと、人前で話すとき、と言った。確かに結婚式の挨拶でも父は両手をぴたりと腰のあたりにつけて持ち前の低い声を響かせ、父が話している間横に立っている母は少しだけ誇らしげに見えた。
幼い頃、石巻に帰省するとよく家族で防波堤に釣りに出かけた。父はよく「このあたりの海は沖合にでるとエメラルドグリーンに変わる。最高に天気がいい日は青い海の向こうにエメラルドグリーンの海が見える」と言った。今は嘘だとわかっている。エメラルドグリーンの海というのは南の海で、石巻の海は別に汚い海ではないが深く冷たい海である。それぐらいのことは当時もわかっていたかもしれない。防波堤の先まで来ると、私はいつもずいぶん遠くまで来た気がして寂しくなった。鈍い色の海を見ていると余計にその思いは強まった。しかしただそのときは引き返せばよかった。「エメラルドの海はまたそのうち見える」といつも父は言った。けれどももうあの防波堤の先に行くことはないだろう。だからエメラルドの海は永遠に青い海の向こうにある。