味のしないきなこ棒
ゆたかさとは「安心だと思えること」だと思う。
幼い頃の私は、内弁慶の申し子のような子供だった。
ドラマや漫画でよくある、お母さんの足にしがみついて離れない子供。街で母の知り合いに会っても、母の後ろから上半身だけを覗かせ肩をすくめ上目遣いで小さく挨拶をする、そんな子供だった。
家の中では、人が変わったように私は陽気な子だった。ずっと喋って歌って踊っていた。それに、ワガママだった。父からは静かにしてくれとお願いされるほどだった。
小学生になっても、内弁慶っぷりは変わらなかった。友達が欲しかったが、とても気弱で自分から声をかけて遊びに誘うということが出来なかった。
断られるのが怖かったし、話しかける勇気もなかった。
なので、誰かに遊ぼうと声をかけてもらうのを待つか、クラスの中心にいる、目立つ明るい子達の後ろをついて回って、遊びに混ざっていた。
誘ってもらうことに喜びを感じ、遊んでいる時は内弁慶の自分から解放された気がした。子供ながらに、内弁慶よりそうでない方がいいと思っていた。
今思うと、ある種の優越感を感じていた気がする。内弁慶で気弱な自分がクラスの中心になったような気がして。
それに私は学校生活で、誰かの意見や希望に逆らうことはなかった。
というか気弱過ぎて、自分の気持ちを口に出して相手に使えることができなかったと言った方が正しい。
はないちもんめで遊びたいと思っていても遊ぶ子が、かくれんぼがいいと言えばかくれんぼをした。かくれんぼがいいと言った子は嬉しそうだった。
当時、流行ったお気に入りの香り付きの消しゴムを持っていたが、普通の消しゴムと交換してほしいと言われれば交換した。交換してほしいと言った子は嬉しそうだった。
母に消しゴムのことを聞かれたが「こっちが可愛いと思ったから友達と交換した」と言った。
母は「友達」という言葉を私が出すと嬉しそうだった。私の内弁慶が親としても心配だったんだと思う。
同じようなことがあるたびに、嫌だと言う気持ちは湧いたが、相手が嬉しそうにしているとこれでいいんだという気持ちになったし悪い気もしなかった。
そんなことを繰り返すうちに、私は小学校という小さな社会の縮図の中で、ある気持ちが芽生えた。
「相手が望むような自分でいれば、安心だ」
内弁慶で気弱な少女は小学校低学年でそうすることが自分を守り、良い学校生活を送っていけるのだと悟った。
私は小学校3年生になった。
相変わらず誰かの意見に身を任せて学校生活を送っていた。休み時間や放課後、本当は苦手なミニバスやドッヂボールもそれなりにこなしていた。もうその方が完全に楽だった。断ったら友達がいなくなると思った。それに友達は皆、楽しそうだった。
ある日、学校から帰った後、待ち合わせしてクラスの友達と2人で校庭で遊んでいた。その子は明るくクラスの中心的な子だった。
3年生になってから、その子と遊ぶことが多かった。私が友達に「何して遊びたい?」「次はどこ行こうか?」と聞き、それに合わせて遊ぶという相手優先の遊びのスタイルだったが、遊んでいれば楽しかったし優しい子だった。
校庭の周りを歩いていると、その子が何かを見つけた。停めてあった自転車のカゴにパステルカラーのキキララの財布が無造作に入っていたのだ。
「誰のかな、かわいいね」私が言うと、友達もかわいいねと言って手に取った。
「中にお金入ってるんじゃないかな」と言いながら手に取った財布の中を確認し出すと300円が入っていたらしく、手のひらに広げてそれを私に見せた。
近くに持ち主らしい子はおらず、なんならその場に私達しかいなかった。
「そのままにしておいた方がいいかな?職員室に持って行った方がいいかな?」と私が言うと、友達は無言で広げていた手のひらを握りしめて言った。
「駄菓子屋行こう」
私は一瞬ワケが分からなかった。
学校のすぐ隣には駄菓子屋があった。
ズンズンと駄菓子屋の方向へ歩く友達の後をついて行く中で私はハッキリと思った。
「お金を盗んだ」
駄菓子屋に着くまでに自分の中で2つの想いの葛藤があった。
友達にダメなことだと伝え、あった場所に戻すか。または、このまま黙って友達の言う通りに駄菓子屋に行くか。
結局、私は後者だった。
駄菓子屋に着くと友達は私に「どれにする?」と聞いてきた。
私はそれでもなお、何も言わずに駄菓子を選び当時好きだった、楊枝にきな粉と砂糖の練り物が刺さっていて、周りにきな粉をまぶした「きなこ棒」を選んだ。
好きだったという理由もあるが、値段も10円と最安値の駄菓子だったので、盗んだ300円に対しての免罪符にしたかった。
友達から100円をもらって駄菓子屋のおばちゃんにそれを払った。おばちゃんは笑顔だった。この100円が、まさかさっき盗んできたお金だなんて決して思っていないだろう。笑顔になんてなれなかった。
きなこ棒をおばちゃんから渡され口に入れた瞬間、私は思った。
全然、美味しくない。
いつもの味じゃない、ボソボソとしたきな粉がジャリジャリと口の中で嫌な音を立て、いつもは甘く感じるきなこ棒が無味だった。
それは、明らかに盗んだ300円で買ったきなこ棒だからだということが小3の私にでも分かった。味のしないきなこ棒が悪いのではない。私が悪いのだ。
その時、私は思うより先に口に出していた。
「300円返そう」
友達は驚いていた。
というか私も自分で驚いていた。
初めて友達に反対意見を言った瞬間だった。
そこからは、実はあまりよく覚えていない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」そう思いながらズンズンと校庭の自転車に向かい歩く私の後ろで友達が、残りは300円丸々ないとか、見つかったらどうするとか言っていたのは何となく覚えている。
「よかった…」
カゴにキキララの財布が入った自転車は、まだそこにあった。
運良く私はその日、数百円お金を持っていて、そこから300円を財布に返すことができた。
友達は黙っていた。
私も黙っていた。そこで友達と別れ、私はとてつもない早さで動く心臓を感じながら家に帰った。
次の日から学校で顔を合わせても、私も友達もその話題について触れる事はなかった。それに、仲が特別悪くなるわけでもなかったが自然に疎遠になっていった。
私はそれから、少しだけ変わった。
ミニバスやドッヂボールは体育の時間以外やらなくなった。放課後は、友達とお互い好きな漫画を持ち寄り公園のベンチで日が暮れるまで読みふけった。
10回のうち3回は自分の意見を言うようになった。それでも友達はいなくならなかった。
駄菓子屋にはその後も通った。自分のお金で買ったきなこ棒は、あの時300円で買ったきなこ棒と比べ物にならないほど美味しかったし、おばちゃんの笑顔に私も心から笑顔になれた。
そして、こう思うようになった。
「自分が望むような自分でいれば、安心だ」
今でも、ふとあの時の300円の事を思い出して胸の奥がギュッとなる。盗んでしまった事実は消えないし、これからもその300円を使って買ったきなこ棒の味は忘れないだろう。
自分がお金を使う時、安心してそのお金を使える。食べる時、安心して食べられる。誰かといる時、安心して一緒にいることができる。安心だと思えること。それが、ゆたかさなんだと思う。
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