牢獄に鏡、はじめました
新年早々、文章で感動した。
この先の私が書くことはヒマなときに読んでいただくとしてとりあえずこちらを。
https://note.com/320_42/n/n7c05c33cb4b7
以下、たくさん引用してしまって申し訳ないのですが、本文より。
盲目的に「痩せ」を目指すとき、身体の認識に連続性が失われていることが多いように感じます。認識の上でどこかパーツの一部分だけが極端に肥大しているような…
仮に完全パーフェクトなパーツをゲットしたとしても、それが装着されるのは自らの身体だということを忘れてはいけません。
「過度の痩せ、不健康に対する賛美や憧れ」があるのでそれを目指したいという人もいるかもしれませんが、
あなたがイメージするロールモデルとあなたは同じにはなりません。骨格が違うから。
であれば、あなたはあなたの骨格や体質、あなた自身が持つムードが得意とするやり方でオリジナルの不健康、もしくは悪辣な美を表現した方が楽しいと思います。
ありえないくらい有象無象のコンプレックスに360度完全包囲されていたとしても、せっかく選べない身体の牢獄に囚われているのだから、そこであげる悲鳴くらいはせめてオーダーメイドでいきたいと思いませんか?
ちなみに私はちょっと泣いた。
自分の内臓をぜんぜん愛せない、ぜんぜん自分のものだと思えない、こんなの私が選んでないのにどうして私のものなんだろう。その苦しみが一瞬も顔を覗かせない日はない。
「自分の体を大事にしてね」家族や友人、大切にしたい人たちからそう懇願されるたびに辛い。私にはどうしても自分の体を大事に思えないからだ。思えないのはおかしいのだと感じて辛かった。周りの人が大切にしてほしいと願うものを私は大事にできない。申し訳ない、「自分の体を大切に」しなくちゃ、まあ体調がつらいとふつうに辛いし...と自分で自分の体を整えようとするたび、いつも自分の正直な声がする。
私は選んでない。この内臓を選んでない。
だから、ちょっと泣いてしまった。
せっかく選べない体の牢獄に囚われても、悲鳴は選べる、こんな誠実な言葉があるのか、誰か書いてくれる人がいたのかと思った。
自分の体を愛せるようになろうとは思わないけど、せめて自分のために、自分の悲鳴を聞き取るところからはじめようと思えた。
そのおかげあってか、食事記録と睡眠食事排泄の記録がいままでになく続いている。いっしょにはじめてくれた友だちにもとても感謝している、根本的にものぐさなので監視の目があると思えないと習慣化まで辿り着かないのです。あと、新年から背筋と肩甲骨のストレッチとプチトレーニングを隙間時間につづけている。
今朝はびっくりした。バスに乗って、背中に血流が流れているのがわかった。滞りがない感覚、温かく熱すぎない血液がまっすぐ流れているような、軽い背中。自分の体をそういうふうに知覚したのははじめてだった。
どうせ死ぬまで入る牢獄なら、鏡くらい置いてみてもいいのかもしれない。キツかったら割ればいい。選んでなくても私の、私だけの牢獄なんだから。
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