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星教え

ひととぶつかるのが好きだ。
誰かの心の中の、日当たりのいい物置みたいなやわらかい場所を言葉にして見せてもらうのが好きだ。
言葉を使ってお互いの内側を近づけることも、遠くにあるものを一緒に見ようとして背伸びすることも、とても好きだ。
小さい頃、南房総で見た夜の空を思い出す。さそり座のアンタレスを教えるために、母は私に頬をくっつけて、自分の視線の先をなぞらせるように言葉を使った。あれがさそりの尾。まっすぐたどる、線を伸ばす、そう、あれが夏の大三角形だよ。

ずい分大人になって、自分で2等星も3等星も探せるようになったのに、どうしても言葉にすることをやめられない。
私が見ている景色を、誰かにも見てほしいと思う。

少し前まで、それはみんな同じなのだと思っていた。誰もが自分の心を言葉にしたくてたまらなくて、そうせずには生きていけないのだと思っていた。でも、他のすべてのことと同じように、誰もに共通することなどなく、言葉もただ私にとっての星にすぎない。自分の内側を渦巻くなにかを言葉で隠す人たち。あるいは、それを呼ぶ言葉を、見出そうとは思わない人たち。彼らには、私と違う星が見えているのだろう。

働きながら、もっと善くあろうとしながら、その断絶の前で、立ち尽くしている。
その向こうにいる人たち、私とは異なる星を見上げて生きている人たち、離れてはいるが決して別の地平で生きていくことはない隣人たちの信じる星を、あるいは失った星を、どうしても私に教えてほしい。私たちにはそれができるはずだと、私はまだ信じている。

とはいえ言葉はいつも不完全で、言葉にしなければ起こらない荒波ばかりで、自分の心ひとつですら、人にそのまま伝わる言葉にするのは困難だ。炎のようだ。灯せば後から形を変えることはできない。人を温めもし焼き殺しもし、灯台になりあるいは真実を灰にもする。誰かから誰かへ継がれていく。

死ぬまで言葉と生きていきたい。
繰り返し立ち尽くして、同じ言葉のなかの断裂に息をなくし、違う言葉のつたなさに膝を折り、それでも言葉と生きていきたい。

誰かの見ている星を、別の誰かに教えること。
もうこの世にはない古代の光を呼ぶこと。
頬を寄せるように。さそりの尾をなぞり指さし、夜に見えない絵を描くように。見えないものを信じるように。

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