恐れていることを見て、信じることを決める
誰かを傷つけそう
誰かを悲しませそう
誰かを苦しめそう
誰かに迷惑をかけそう
心に関する仕事をしていると、これらが心理的ブロックとなって自分のやりたいことや向かいたい方向を邪魔する場面によく出会います。
自分も、同じようなことを考えて、同じような感覚になって、「うっ・・・」と止められる感覚になることも、もちろんある。
でも、いつも思う。
誰かを悲しませそう
誰かを苦しめそう
誰かに迷惑をかけそう
これ、ぜーんぶ抽象的すぎる。
ただ、ここでストップせずにもうちょいだけ見てみると面白いことがわかるんです。
その人が傷つくって具体的に言うとどうなるってことなの?
相手が悲しむってどういうことなの?
その人が苦しむってどういうこと?何に苦しむの?
迷惑がかかるって具体的にどういうこと?どうなることなの?
もうちょい具体的に問いかけしてみるんです。
誰かを傷つけそう
誰かを悲しませそう
誰かを苦しめそう
誰かに迷惑をかけそう
ここでやめてしまうことが多いのだけど、あえてやめずに、もう少しその先を、みてみるんだ。
例えば、この気持ちを言いたい!でも言ったら傷つけそう…ここでストップするとぐるぐるします。
言って傷つけるって具体的にどうなることなのか?って見ていくと、
例えば相手が嫌な気分になるとか
相手が自信をなくすとか
相手が離れていくとか
…傷つけそう
という抽象的な言葉で言いくるめてカモフラージュしていた、もっと内側のイメージが見えてくるんですね。本当に怖がっていることだとか、本当に恐れているイメージだとか。
そのイメージを見ることが大事。
自分が何を怖がっているのか、怯えずにそれを見るんです。
そして、
誰かを傷つけそう
誰かを悲しませそう
誰かを苦しめそう
誰かに迷惑をかけそう
これ、全部
その人のポテンシャルなめんなよ自分
問題と呼んでいて。笑
そんなことで自信をなくすような人じゃないし
そんなことで嫌々いう器の小さい人じゃないし
そんなことでいちいち自己否定するような人じゃないし
と、相手の本質的な力や器をどれだけ信頼することが出来るか、なんです。
誰かを傷つけそう
誰かを悲しませそう
誰かを苦しめそう
誰かに迷惑をかけそう
たしかに人を思いやることは大事。
でもそれは、相手を勝手に決めつけて心配することじゃない。
信頼したように、相手はふるまう。少なくとも自分の世界においては、自分が信じたように相手が振る舞う(そのように自分は認識する)
相手が受け入れる力のない器の人だと信じれば、相手は受け入れてくれないような気がするだろうし
相手が自信を失って立ち上がることができないような人だと信じれば、その遠慮がますます相手の自信を奪うわけ。
いちばんシンプルなのは
そもそも決めつけない
ってことと
相手には相手の反応する自由があること
を肝に銘じることだと思うけど。
まぁ、人と人はなかなかそう割り切れるものではなくって。
思いやることと信頼せずに心配することの線引きをすることのほうが大切だとわたしは思っています。
相手に対する不信感に目をつぶって
相手のせいにすることは
自分の本当にしたいことじゃないはず。
自分に改めて言い聞かすきっかけに感謝した真夏の日でした。
何かをやりたい時にもし、
誰かを傷つけそう
誰かを悲しませそう
誰かを苦しめそう
誰かに迷惑をかけそう
これが頭をよぎったならその少し先を必ずみるようにしてみて。
不信感を怖がらずに受け入れて認めるということは、これから何を信じるのか、心新たに決めるときでもあるのだから。
もし人生が無条件に自由で豊かだったら何をするかと言われたら書く、というくらい書くことが生きる上で欠かせない人間です。10年間の集大成を大放出します。サポートは全て執筆と研究活動に使わせて頂きます