「悔しさ」も「ワクワク」も燃料にならないような人間はどう【やり抜け】ばいいのか。悪趣味なグリッドの真面目な話。
今日はわたしの最近の頭の中を公開しようと思います。
題して、
「悔しさ」みたいなのをバネにしてがんばれない人間は何をジャンプ台にして飛べばいいんだ
この記事ではそんなような話をしようと思います。
そして最後まで読めばわかると思いますが、この記事では「グリッド」について触れています。
あなたらしい”グリッド”を見つけるヒントになると思います。つまり、「やり抜きかた」ってことね。
ではここからはハタユカの頭の中もとい、年中割とだらけたわたしの”グリッド”話をば。
普段書く記事からは想像もつかないくらい、わたしはかなりだらけた人間で、色々と予定は忘れるし納期は基本的に守れないし、スケジュールはできるだけ真っ白にしておきたいし、数字には弱い(特に経理)し、
産後はさらに忘却が激しくなってさっき聞いたことを何度も旦那さんに確認する・・・みたいなポンコツ度合い増し増しで。
ここに+子育てが容赦無くぶっ込んでくるもんだから、仕事できる時間になるともう体力残ってなかったりすることも多々あるわけで。
基本、弱々かと思うのです、あんなクセ強記事書いといて言うのもなんなんですがね。
だらけたというか、気が抜けたというか。聞こえ良く言うなら、気が張っていないというか、気が張れない。
そんなわたしは数年前に、自分は「悔しさ」とか「屈辱感」とか「敗北感」的なものを燃料にできないタチなんだなということを思い知ったので、そのくらいから常々
『どうこの、だらけた感じで生き続けていられるか』
と考えるようになっていきました。
”ありのままの自分”と言われるようなそんな自分自身に戻っていくたびに実感していたことなのですが、ネガティブな感情は全て自分の土壌となって養分となって吸収されていってしまうため、『おりゃー!』と這い上がるような気力になることはなく、そのまま自分の一部になって溶けていってしまうのです。バネとかガソリンになるどころか、車の一部になってしまう、的な。
だから、どれだけ失っても失敗しても悲しいことがあったり悔しい思いをしたり、ムカつくことがあったとしても、それが自分のバネにはならないなぁ、と感じていた。
そう。ネガティブと溶け合うの、うまくなりすぎたのです。仲良くなりすぎた笑
がしかし、ここでひとつ悩みが生まれました。
「悔しさ」もバネにならないけれど、「ワクワクする」もバネにならない!わぁー大変だ。ほんとよ?びっくりするんだから。
悔しくってもジャンプできないし、ワクワクしてもジャンプできないって、もう何?飛べないなら地面に沈んどく?って話ですよ、オクサン(誰)
まぁ、素の自分に戻っていったら案外そんなもんだったというとても良い気づきではあったのですが、そこからどうにも今までのがんばりかたでは(ガソリンでは)うんともすんとも言わなくなりましてね。車が動かん。
ここはわたしの底辺か、と思ったわけ。
でも、底辺の自分がわかれば、その底辺の自分が基盤となって生活が回るような設計をしたらば、あとは”積み上がる”一方ですよね?飛ばなくても、いい。
ジャンプ台もバネも必要なくって。山登りのような人生じゃなくて、里で家を創るような人生にすればいいのか!って悟ったわけです。
そこからは、飛ぼうとするのをやめました。ジャンプ台も、特別なバネも、自分には特に必要ないんだなとわかったからです。
以前、ビジネス界隈で”グリッド”という言葉が流行りましたね。
「やり抜く力」みたいなのを指しているらしく、何事の成功にもこの力が欠かせない、とのことでした。
大いに大賛成です。誰もが自分自身の”グリッド”を知らなければならない。
あなたが、”やり抜ける”ためには、何が必要なのか。あなたの車体に合った燃料は一体なんなのか、と。
わたしの場合は、いろいろな力を抜いてみたらば、なんとも自分はだらっとしていただけのこと。
素の自分は、悔しくもならないし、ワクワクも別にしない、超だらけた、しらけた奴。大きな目標でも気持ちは盛り上がらないけれど、小さく縮こまって生きるようなつもりもない、中途半端な奴。
人任せにはしないけれど運任せなところもあり、かといって不安になれば運にも委ねきれずに半端に努力もしちゃう奴。
えらい自虐的に聞こえるかもしれないですが、基本的にはそんなのがわたしです。底辺はそのような感じで、グラウンディングするならまさにこの自分って感じ。
同時に、そんな自分を丸々認めたことで背負っていた大きな荷物を丸ごと放り投げたような身軽さも取り戻したように思います。
『そうそう、わたし、こんなんだったし、ここから始まってたわ』と。自分の底に足をつけたら、大したことなかったわとね。
思えばいつの間にか会社が増えたり、従業員を雇って立派な経営者になろうとしたり、誰もが認めるような成績(数字)を出そうとしたり、拡大拡大!と都心で踏ん張っていいマンションに住んで必要もないのに外車乗ったり(この車は大好きだったが)ブランド品買ったり
まぁ色々と性に合わないようなこともやってみて楽しかったのですけれど、いっときのイベントみたいな感じで自然には続きませんでしたね。
今の田舎暮らしでひっそりと家族との時間を大切にしながら、粛々と執筆に勤しめる生活の方が自分にはしっくりきています。
そう、だらっとしていられるような環境の方がね。化粧もせんでいい、おしゃれもせんでいい、電波も音も信号も看板も人間も少ない、イェイ!!!とな。
で、本題なんですけど(ここからw
わたしは「悔しい」とか「負けてたまるもんか」とか「このままでは終わらねーぜ」とか「見てろよ」とか、そういう類の感情ではエンジンがかからない・・・ってかそもそも、その感情がガソリンではないんですね。
「起爆剤」にはなるけど「燃料」ではない。始まるきっかけにはなるけど、続ける理由にはなってくれない的な。
そして、テンション上がるようなワクワクとか、「憧れるー!!」みたいなこととかも同じで。
要するに、「強い刺激」自体がガソリンにはならないタチなんです。入れてみたけどエンストしやすかった、みたいな。
ある人の車体には合っているかも知れないけれど、わたしの車はそれじゃうまく走らなかったです。
じゃあ、わたしの車に合ったガソリンってなんやったけ?と思い返してみたんですよ。
何がわたしの”グリッド”に必要な要素なのか。わたし自身でさえも把握しきれていないような、もっと”ネイチャー”な燃料とは。
そこでよく考えるようになりました。人生で最も”燃費良く”爆走していた頃のことを・・・
そういえば起業したての頃って、どんな気持ちがガソリンになってたっけな?なんて思い返していて気づいたんです。
(途中からおかしくなったのは、ガソリンを入れ間違えたからだ・・・とも気づいたが)
わたしのガソリンは
ここから先は
もし人生が無条件に自由で豊かだったら何をするかと言われたら書く、というくらい書くことが生きる上で欠かせない人間です。10年間の集大成を大放出します。サポートは全て執筆と研究活動に使わせて頂きます