#1 愛に苦しむなら本当に欲しいのは”愛”じゃない【恋愛やパートナーシップから見える心のトゲとは】
まるで海水を飲むように。飲めば飲むほど、それによる渇きに苦しめられもする。
以前書いたこちらの記事で、愛による苦しみをこのように表現しました。
愛は海水のようなものだ・・・と思います。そのまま飲めば飲むほど、喉も身体も潤うどころか、渇いていく。でも、少しするとまた、飲みたくなる。(いや、海水は飲みたくならないだろうが・・・)
本当は飲みたいわけではないのかもしれない。でも、”自分は喉が渇いていて、とりあえず何かを飲みたくてしょうがない”という前提がすでに当たり前になっていたとしたら。もしかすると目の前に何があっても、海水を手に取ってしまうのかもしれないですね。
愛とはそのようなものだと、思います。自分には愛が足りない(愛され足りていない、愛されている実感がない)ということが随分と当たり前になってしまい、そのセルフイメージを疑うこともなく引きずり続けているパターンをよく見てきました。そして、自身も実際にそのようなパターンだったと今は思います。
あなたが求めるのも”愛”、苦しめるのも”愛”
ずっとこのシリーズを書きたいな書きたいな・・・と思い続けて半年。やっとこさ重い腰をあげて、少しずつ執筆していきます。
このシリーズには、Salvation on Loveー愛からの解脱ーという奇妙な名前をつけました。愛からの解脱・・・難しそうに聞こえて、意味はシンプルです。
愛からの解放、愛からの解脱、とは
愛にまつわる勘違いを徹底的に解き
愛にまつわる不足感を徹底的に観察して疑い、
愛による苦しみから解放して
愛から自由になること
を指します。
愛されナントカ、愛される人になるためのナントカカントカ、を否定するつもりは全くありません。わたしも個人的にたくさんお世話になりました。
ただ、それらを通して愛に悩むすべての人がつかむ必要があるのは、”求めていた愛”ではなくその先にある”愛にもう悩まなくてもいい自由”なのではないでしょうか。
例えば、数多くの女性向けの恋愛本には『男性は頼られたい生き物だから甘え上手な女性になろう』と書いてあります。(わたしも自分の書籍に、書いたかもしれませんが・・・汗)
この部分、正解かどうかはさておき、少なくとも本質的に重要なのは”強がらずにいられる信頼関係を築くこと”だったり”心を閉ざさないで素直になって自分を表現していい”ということだったりすると思うのです。
愛されるためにするんじゃなくて、男性に頼ることが自然とできる女性になることによって愛されている実感というものは副産物的についてくる、がしかしそれはあくまでも副産物であってメインではない、ということを意識しているかどうかは非常に重要です。
愛されるために男性に頼ろうとするのではなく・・・あなた自身の”心の身軽さ”や”解放感”や、もう愛にビクビクと怯えなくてもいいという”潤い”に向けて、愛される女性になるための努力をするということ。
もちろん、頭でわかっても、なかなかそうはいかないこと多し。だからこそこのシリーズでは、愛を求め愛に苦しみそれでも愛に焦がれるすべての女性に向けて、普通の恋愛本をうまく補佐するような内容を届けていきたいのです。
繰り返しになりますが、愛されようする目的は、”愛されていると実感すること”ではなく、その実感の先にある「もう、愛について悩まなくてもいいんだ」という根本的解放だとわたしは思うのです。そのように目標設定をつくらなければ、愛されていると実感することは時に中毒症状を引き起こし、まさに冒頭の
まるで海水を飲むように。飲めば飲むほど、それによる渇きに苦しめられもする。
という状態を作る。つまり、
余計に渇く
のです。
たくさんの恋愛本を読むのもいい。愛着関連の方面におよんで自分と向き合うのもよい。愛されるためのテクニックやモテるための方法を学ぶのも、よい。
でも、愛で潤うはずが、あなたは愛によって更に渇いていませんか?
もし「そうだ・・・!」と感じるなら、ここで落胆する必要はありません。愛を諦める必要はありませんが、”愛を求めるパーソナリティを諦める”という必要はあります。
これから、その話をしていきますね。
愛を求める「パーソナリティ」から解放されるということ
例えば誰か特定の人の愛が欲しかったとします。好きな人だったり、彼氏(彼女)だったり、伴侶だったり。
その時ってだいたい、”相手からの愛だったらなんでもいい”とは全く思っていなくて、自分の中で無意識に「こうやって愛して欲しい」「こういう愛情表現をして欲しい」と思っているものです。
そして、恋愛やパートナーシップに苦しんでしまう場合はだいたい自分の中にある「こうやって愛して欲しい」「こういう愛情表現をして欲しい」に対して罪悪感を持っていたり、過去の恨みを同時に持っていたりします。
『こうやって愛して欲しい、わたしの望む通りにこのような愛情表現をして欲しい(だけど、そんな願望を抱いていることはいけないことだし、そんなことを求めているわたしはダメなんだ)』
『こういう愛情表現をして欲しいし、わたしの求めている愛されるというのはこういうことだ(だけど、そんなこと誰にも一度もしてもらったことがないし、あの時だってあの人だってそうしてくれなかった!!!)』
望んでいるのに同時に絶望していたり、欲しいと思っているのに欲しいものに対してとんでもなく怒りを抱えていたりするのです。非常に複雑なんですね。
想像してみてください。
とてつもなく欲しいものが目の前にある。でも、それはもの凄く尖ったサボテンのような状態だ。それを全力で抱きしめたらあなた自身にトゲが刺さって痛い想いをする、ケガをする、下手したら死んでしまうなら?
愛されるためにアレをすること、これをすることが重要だといくらわかっていても、自分の中に罪悪感や恨み怒りが眠っていると、アクセルとブレーキを同時に踏むことにもなるんですね。
だから、まずはサボテンの棘を抜いて欲しいんです。
あなたのサボテンは、あなた自身でもあります。もっと言えば、幼いあなた自身であり、専門用語ではインナーチャイルドと言ったりもします。このシリーズでは”愛を求め続けるパーソナリティ”と表現をしたいと思います。
愛が欲しいわけじゃないと認めることができると
彼の彼女の愛が欲しい、愛されている実感が欲しい、と思っていても本当に欲しいのは”自分の必要としている愛情表現をしてくれる人、またはその愛情表現そのもの”なのです。
決して”愛そのもの”が欲しいわけではないんですね。自分の中にいる”愛を求め続けるパーソナリティ”が欲しいのは愛そのものではなく『形』だということ。実感より形。
お金に例えるなら”豊かさという体感”よりも”お金”という形が欲しい、そんな感じでしょうか。本当は、お金がなくても豊かさを体感することはできるけれど、そういうことじゃなくて”お金”という形がいい!と執着しているのと似ています。
愛じゃなくて欲しいのは、”自分で決めつけちゃってる愛っぽいもの”
最初は、ある意味衝撃的ではあるかもしれません。受け入れられない!自分は愛の体感が欲しいんだもん!と言いたくなるかもしれません。でも、とりあえず受け入れてみて欲しいのです。
愛っぽいもの(しかも、かなり限定的で固定化されたもの)をほしがっていたんだ、と。愛じゃなくて形が欲しかったんだ、と。
”愛されているという実感を欲しがっているようで実は、ある特定の形に執着していたのだな”ということに気づくことや、そんな自分を受け入れることは一種のセラピーです。
執着は悪いことではなく、執着はただ、どうすることもできなくって”そうするしかなくなっている”だけだから。そんな自分を見つけたら、「どうしたらいいか分からなくなっているから、執着しているだけなんだな」と思って、これから新しい方へ向かっていこうと、小さく励ますのです。
そして、愛を求めるパーソナリティを諦める(解放される)とは、自分の内側にいる”トゲの刺さったあなた”から苦しみを解いてあげること。このトゲは、あなたには本来必要のない”自己評価”です。
わたしは不快な思いをさせる
わたしは面倒くさい
わたしは重い
わたしは邪魔
わたしはいつも後回し
わたしは関心を持たれる価値がない
わたしは丁寧に扱われない
わたしは都合の良いように使われる
・・・・・
愛を求めるパーソナリティは大切なあなたの一部。でも、トゲが刺さっていて、とても痛くて、辛くて、泣いているんです。
じゃあ、どうやったらトゲが抜けるでしょうか?溶けるでしょうか。
”愛っぽいもの”があれば、幸せになれると思っていた。(お金があれば、豊かになれると思っていた、と同じ)でも、そうじゃないとしたら、何が必要なの?
そう思ったら、ぜひもうちょっと深く自分の中に入り込んで、感じてみてください。
愛を求めているあなたの一部分の声を聞いていると、『愛されたい!』『もっと構って欲しい!』『わたしを理解して欲しい』『興味関心を抱いて欲しい』『わたしの言う通りにして欲しい』『わたしに安心感をちょうだい』と言っています。
しかしその奥ではほとんどが
謝って
いるんです。
あれが出来なくてごめんなさい(だからわたしを愛してくれないの?)
こんな子でごめんなさい(だからわたしに興味を持ってくれないの?)
面倒くさくてごめんなさい(だからわたしのことを無視するんだよね・・・)
可愛げがなくてごめんなさい(だからわたしはいつも1番じゃないんだよね)
ごめんなさいごめんなさい、とにかくごめんなさい・・・。
とにかくごめんなさいごめんなさい・・・
あなたの”愛されたくてしょうがない部分”は、一体誰に対してどんな風に、”謝って”いるのでしょうか?愛が欲しいと渇望するそのまた奥の方で、いったいどれほどごめんなさい、許して欲しい、と泣いているでしょうか。
もう、許していいのではないでしょうか。
もう、ごめんなさいは、いらないんではないでしょうか。
この部分に気付くと、本当に欲しい体感は”許し”であることも、わかってきます。
愛されたがっているのではなくて、許されたがっているのだということを感じることができた時、そして自分はずっと許されたがっていたんだなということを感じてあなたが受け入れたとき。
きっと、許しに出会います。
許しに出会うとき、愛に触れます。愛に触れるとき、愛から解放されるのです。
いつでもあなたは愛に向かっている
ここまでは、ある意味細かいプロセスをかなり端折って結論まで書いてしまいました。苦しみの泥中にいるときはむしろ、キレイゴトを言っているように聞こえて怒りが湧いてくるかもしれません。(それはそれで、気持ちはよくわかるので、構いません)
感じられたら苦労しねーよ!
できたら苦労しねーよ!
で、結局どうしたらいいかわかんねーよ!
と、恥ずかしながらわたしも数々の書籍や有名ブロガーさんたちの書いていることに見えないツバを吐いてました(なんちゅう表現や)
でも今のわたしができるのは、どこかで小さく丸くなって泣いている人や、今にも爆発しそうな気持ちをどうコントロールしたらいいかわからなくなっている人に向けて、言葉を残し続けるということと、『いつでもあなたは愛に向かっている』ということを伝えること。
がんばれ、とは言わないけれど、無駄な苦しみじゃない、とは言いたい。そんな風に思いながらこのシリーズを執筆しています。
恋愛やパートナーシップを通してわたしたちは、本当は必要のない自己評価というトゲをひとつずつ抜いたり、溶かしたりすることができます。むしろ本当は、そのために誰かに恋をし、誰かと一緒になりたいと思い、誰かと愛し愛されたいと願うのではないかとさえ、思います。
もし、そうだとしたら、恋愛やパートナーシップって、ひとりでは抜けないような心のトゲを、ふたりで溶かし合うことができるものだとしたらば。悲しみの涙や苦しみの胸の痛み、喧嘩しあう時間さえも癒しや許しの時間なのでしょう。そう思えるようになるまで時間はかかったけれど、時間をかけて良かったと思える未来が、この記事をここまで読んでくれたあなたにもきっと訪れると願って。
つづきます。
もし人生が無条件に自由で豊かだったら何をするかと言われたら書く、というくらい書くことが生きる上で欠かせない人間です。10年間の集大成を大放出します。サポートは全て執筆と研究活動に使わせて頂きます