男性性と女性性を理解するから、オンナでもオトコでもない”わたし”に出会う。
去年からあたためてきた企画が、あたため過ぎてとっくに孵化してヒヨコからニワトリレベルになってしまいそうだったので、思い切って形にしてみようと思い、始まりました。
男性性とか女性性とか、昔に比べたら随分とよく聞くようになりましたね。わたしは数年前からずっと研究してきましたが、特に重要なのは『男性性と女性性の違いについてしっかりと理解すること』だと考えています。
男性性って、オトコの人
女性性って、オンナの人
でしょ?
と未だに思っている方は多いと思います。そもそも”男性”性、”女性”性、という風に表現するからそのようなイメージがついてしまうのかもしれません。
男性のイメージから男性性が派生している、また女性のイメージから女性性が派生していると仮定した場合、そもそも男性のイメージ・女性のイメージとは元々の本質を指すのか、それとも社会的な何か目的があって私たちの中で無自覚に育てられたもの、でしょうか。
わたしは後者ではないか、と考えています。
つまり、男性性と女性性の本質とは、一般的な”男性とはこうである”だとか”女性とはこうである”だとかいった、どこの誰が言い出したか分からないような印象論とは異なる、ということです。
男性性と女性性の本質から、”オトコ”と”オンナ”が派生しているとしたら、どうでしょう?もしそうだと仮定したら、わたしたちが様々な方向から無意識に植えつけられてきた印象とはかけ離れます。男性性と女性性の本質を知った時、”オトコはこう生きるもの”とか”オンナはこう生きるもの”という考え方そのものが、ある意味危険で、そして本質的な意味をなさないことが分かります。
実際にわたしが今まで男性性と女性性について語る時、それは男性の生き方・女性の生き方であるという風に伝わらないよう、意識してきました。その心がけがきちんと伝わっているかどうかは分かりませんが、意識するごとに何度も自分の中に染み付いた”男とはこういうもの”や”女とはこういうもの”という概念に出会います。
そして、出会うたびに少しゲンナリし、それらの無自覚に植えつけられた印象とどう付き合っていけばいいだろうか、と模索するのです。
印象を取っ払ってまっさらに学ぶことの意義とは
男性性、女性性。
言葉からするとやはり、”男性性=オトコ”であり、”女性性=オンナ”であると、そういうイメージになってしまいやすいですが本質を理解する時この印象はとても邪魔になります。
男性性も女性性も、どの人の中にもある要素です。人それぞれそのパーセンテージは異なりますし、状況や環境によっても異なります。
職場では男性性が60パーセント、女性性が40パーセントの方が、家庭では男性性は40パーセント、女性性が60パーセントとなることもあります。男性性が強いとか、女性性が強いとか、というのもその人そのものを断言するような物差しではありません。あくまでも、その状況や環境におけるその人の”要素分配”なのであり、その人の人格やその人の全てを測れるものではありません。
あえて男性性=オトコ、女性性=オンナ、という印象をそのまま持ち越してみましょう。
つまり男性性と女性性が誰の中にも存在するということは、オトコである人は誰もいないし、オンナである人も存在しません。全ての人は、オトコでもありオンナでもあり、さらに言えばどちらでもない、ということが言えます。
あなたはどう感じますか?
あなたはオンナでもオトコでもない、と言われたら。
感じ方は人それぞれだと思います。そして正解はありません。オンナでもオトコでもなければ、”自分”しか残りません。自分からオンナとか男とかというシールを剥がした時に何が残るでしょうか?
男性性と女性性を自分の中に見出すということは、根本的なオトコとオンナの区別について考えることでもあり、今まさに変わろうとする時代における”新しい性の定義”を見つける一つのプロセスでもあると考えています。
わたしではない誰かがやっている男性性と女性性の講座・セミナー・ノウハウだけでも十分なので、本来は自分の興味ある研究対象としてのみ、このテーマを扱う予定でした。しかし、自分の中に、なんとなくの社会的意義を見出すようになりました。
例えば、男性社会が主導だった時代が終わりを迎え、女性の社会進出についてあれこれと騒がれ続けている昨今において、男性が今まで立っていたポジションに女性が立つことになれば、本当の意味で男性と女性の平等な機会が設けられたというのでしょうか。これには色々な考えやそれぞれの見解があるため、結論は明言しませんが、少なくとも男性と女性の間に明確すぎる線引きがある限り、性の戦いは終わらないのではないでしょうか。
区別と統合は同時に行われるのか
男性性とか女性性って、世間一般的なオトコとオンナを指しているのではありません、と言い続けていますが、ピンとこない方も多いと思います。男性性と女性性はあなたの中にある、陰と陽の性質を、表しているのです。(と言われてもやはりピンとこないかもしれません)
陰陽を分けて考えることと、陰陽をひとつまとめとして認識すること、これらを同時に行うことは可能なのか。それはつまり、男性性と女性性を区別しながら、男性性と女性性を同時に認識するということです。
言葉にすると不思議な感じがするかもしれません。
朝と夜の区別はどこでするのでしょうか?太陽が地上に現れた瞬間に朝だと認識するのか。それとも目が覚めた時に朝だと思うのか。その区別は人それぞれで、正解がないものです。
陰陽然り、男性性と女性性(そして、オトコとオンナ)もはっきりと区別できるものではないのです。しかし、区別をしないことにはこのどちらもはっきりと捉えることができません。
区別をする、違いを知りながら、それを両方とも同時に認識するということはつまり、”わたしの中にある2面性を捉えながら、わたしという存在そのものを認識する”ということです。
これは、意識と無意識の関係にも似ています。
自己認知の世界、心の世界や潜在意識の世界について学びを深める時も、この作業を繰り返します。
意識と無意識を捉える、顕在意識と潜在意識の違いを明確にすることをして区別をしながら、意識と無意識の両方によって生まれた現象を捉えていく。
そうすると、わたしたちは、意識によって生きているわけでもなければ、無意識によって生かされているわけでもない、ということも分かってきます。それが分かって何になるの?と言われるとちょっと困ります。
なぜなら、意識と無意識、顕在意識と潜在意識、相反すると思われるものを区別しながらも、それらを同時に両方捉えることによって生まれるのは、メリットやデメリットを超えた”自己感覚”だからです。
”わたし”という感覚は、この相反するものを同時に捉えた時に生まれます。それを言葉で表現しようとするとたちまち”区別”が生まれる。言語は何かと何かの線引きをし、要素と要素を切り分け、分解してしまうからです。
わたし、という存在を語ることで、わたし、という存在は大元から分離してしまう。そんな矛盾があるわけです。
これに意味を見出さずに、面白い、と感じてもらいだけなので、秦さん一体この話はどこに行き着くの?と思われたらちょっと困りますが(いや、読んでいる側の方が困るかもしれませんが)
何はともあれ、男性性と女性性という自分の中に存在する相反した要素を通して、わたしたちは言語化することができないが確かに感じる”わたし”に出会うのです。
わたしが男性性と女性性を語る意義は、そこにあります。
そんな意義なんてどうでもいいわ・・・カンケーねーよ!と思われてもいいけれど、自分にとっての覚書のようなつもりで書きました。
なんか小難しいこと書きましたが、オンラインレクチャーはそれこそゴロゴロしながら聞いてても面白いくらいのレベルで仕上げていこうと思っています。
きっとあなたの、男性性と女性性に対するイメージがガラリと変わるか、もっと明瞭に捉えられるようになるか、するはずです。
この混沌とした、でも美しい旋律を持った男性性と女性性の世界に興味がある方はぜひ、ご参加ください。
もし人生が無条件に自由で豊かだったら何をするかと言われたら書く、というくらい書くことが生きる上で欠かせない人間です。10年間の集大成を大放出します。サポートは全て執筆と研究活動に使わせて頂きます