ある夜の思い出
社会人1年目の春、僕たち新入社員は会社の研修に参加した。
研修先はド田舎だった。「サンドウィッチマンが秘境飯を求めて歩いているような所」と言えば想像しやすいだろう。
駅などない。バス停はあるが滅多にバスは来ない。人はすでに絶滅状態のようで、野生動物の鳴き声ばかりがよく聞こえる。
道端には、「野生動物に注意」と書かれた古めかしい看板が立っていた。
当然ながら、食事処もなかった。近辺には誇張抜きでコンビニしかない。スーパーは15キロ先で、車がなければ到底行けない。
僕たち新入社員の食事は、毎食コンビニ弁当に決定した。
悲劇はそれだけに留まらない。研修先も過酷そのものだった。体力的にキツイとか、覚えることが多いとか、そう言った過酷さなら別に良い。
問題は、その理不尽さだった。
詳細に書くと気分が悪くなるので省略するが、不良中学の部活動で後輩がやられるような理不尽だった。向こうにも最低限の法律知識はあるらしく、暴力こそなかったが、言葉で執拗に殴られた。
1日にあれだけ腕時計を見たのは、後にも先にもあの時だけだ。その回数は、受験時をも凌駕した。
時間が経つのが遅くて仕方なかった。
前々から「あの研修では毎年何人かが泣き出す」とは聞いていたが、納得した。入社後初めて、会社選びに失敗したと感じた瞬間だった。
1週間が経ったある晩、僕は4人の同期と共に一つの部屋に集まった。
「酷すぎるよなアイツ」
「俺なんて今日"本当に大卒かよ"って言われたよ」
「初めての事だらけなんだから上手くできるわけないだろっての」
「昨日更衣室で挨拶したら舌打ちされたぜ」
「俺ら何も悪いことしてなくね?」
「これがブラック企業ってやつか」
「アイツら何が楽しくて生きてるんだろうな」
「この研修を本社が容認しているのが怖いよ」
「俺はさっき転職サイトに登録したわ」
「あ〜、盗んだバイクで走り出したい気分」
そんな他愛もない愚痴のこぼし合いから始まった雑談は、徐々に熱を帯び、やがて半狂乱になった。
「酒でも飲まんとやってられんワイ!」
「オウヨ!」
そんな「エリートヤンキー三郎」の河井と福士のノリで、全員が意気投合した。冷蔵庫には酒がなかったので、すぐさま5人でコンビニへと走った。
はじめは歩いていたが、途中からは文字通り、走った。周囲には民家もホテルも無いのだから誰の迷惑にもならないだろうと思い、大声ではしゃぎながら走った。10分でコンビニに到着し、度数7%のハイボールを5人×2の10本購入した。
今になって思えば、5人で行く必要などなかった。しかし、動物しかいない漆黒の夜道を、一切の恐怖心を感じることなく大騒ぎしながら愉快に駆けることができたのは、5人で出向いたおかげだろう。野生動物もドン引きして隠れていたに違いない。
部屋に戻った僕たちは、早速缶を開けた。
「どれだけ飲むかは個人の判断で!」
「無理したら明日死ぬぞ!」
「オウヨ!」
「死なないようにな!」
「オウヨ!」
「ワシは死んでもいいワイ!どうせ人は死ぬ!」「こんなところで死ぬのはアホだろ〜」
「飲むぞ飲むぞ!」
「よっしゃ!酒に逃避するぞ!」
「オウヨ!!!!」
そうして僕らは飲み干した。次の日の研修なんか知ったことか。
飲みながら皆でベラベラとくっちゃべったが、内容はよく覚えていない。同期の女性陣の話だっただろうか。
飲みまくるぞと意気込んだ割に、全員根が真面目なせいか、結局誰も無理をしなかった。僕も1缶飲んだだけだった。
それでも疲労のためか猛烈な速度で深酔いし、ひっくり返った。ボンヤリする視界に、同じようにひっくり返る同期たちが映った。アハハ、みんなひっくり返ってる。ウケる〜 しばらく爆笑したのち、僕は眠りについた。
しばらくして目を覚ますと、まだ30分しか経っていなかった。どうやら寝たというより気絶したようだった。
あたりを見渡すと、全員が虚な目でそれぞれ別々の方向を見ながら静かに座っていた。立ち上がる気力も話す気力もなさそうだった。
なんなんだ。この滑稽な光景は。ずっとこうしているつもりか。それはさすがにキツい。そう思った僕は、提案した。酔いを覚ますべく外へ出ようと。皆ダルそうに、しかしすんなりと承諾してくれた。
「そうしようか」
「動物も見れそうだしな」
「俺の服はどこ」
外に出て驚いた。冷静に心を沈めて観察すると、ド田舎の夜はあまりに美しかった。毎日に必死で、この瞬間まで気づかなかった。空気は澄み渡り、遠くの山々や星が明瞭に見える。
静けさにも感動した。都会にいては絶対に味わえない静寂。1人の発した
「どこらへん歩く?」
が、500m先まで届きそうな。そんな圧倒的な静寂だった。
僕は初めて、ここに住む少数の人々の気持ちを理解できた。この夜のためだけに、ここに住む価値がある。そんな気がした。
静けさが愛しいし、どうせ話す気力もない。5人は、応援していたチームが負けた後のサポーターのようにヒッソリと、しかし力強く歩き続けた。
やがて、同じく散歩していた女性陣と出くわした。部屋にいてもすることがないので散歩することにしたらしい。娯楽のないこの村では、皆そうするしかないのだ。
久々に異性の人類を見て急に元気になった僕たちは、ワイワイと事の顛末を話した。はじめは呆れ顔で笑っていた彼女たちも、しまいには「よくない?私たちも今度やろうよ」と盛り上がりながら宿舎へ吸い込まれていった。
※余談だが、彼女たちは後日本当に実行したらしい。ただし休日の前の日に。さすがだ。
その後のことはあまり覚えていない。帰って寝ただけだったと思う。硬いベッドが、この日はやけに柔らかく感じられた。
翌日、全身に不快感を覚えながら研修先へ向かった。ここまで二日酔いが酷いとは。最悪クビになるかもしれないな。などと覚悟していたが、その日の研修内容は珍しく平易で、叱責されるポイントすら無かったので何事もなく終わった。
もちろん翌日以降は普段通りの研修に戻り、相変わらず皆で理不尽に叱責された。ラスト1週間の個別研修では一対一で叱られることもあった。
それでも僕らは怯まなかった。
皆で鬱憤を発散し、皆で人っ子一人いない夜道を走り、皆で強めの酒を飲み、皆で笑い、皆でひっくり返り、皆で生気を失い、女性陣に呆れられ、笑われる。真面目に生きてきた僕らにとって、ここまで派手にハメを外したのは初めてのことで、異世界を見てきたような気分だった。
もう何も怖くない。嫌なことがあったら、また皆で集まってバカをやればいいんだ。バカをやれば気分は最高潮に達するし、嫌なことも多少は忘れられる。
辛い時はそう言い聞かせて、研修を乗り越えた。夜の美しさや、同期たちとの相性の良さにも助けられた。
泣き出す同期もいたかもしれない。しかし、僕たちは最後まで泣かなかった。
酒を飲んで大騒ぎする。それは、僕が昔から嫌ってきた行為だった。頭が悪そう、品が無い、迷惑だ… しかし、この研修期間はそんな行為に救われた。
たまにはこういうのも悪くないな。誰にも迷惑をかけていないし。頑固に凝り固まっていた固定観念が、ちょっとだけほぐれた。
ここ数日の涼しい夜は、あの半狂乱の夜を思い出させる。僕は今日も1人であの時の酒を飲み、もう気楽に会うことの出来なくなった同期たちを思い浮かべ、感傷に浸っている。